Wednesday, February 25, 2009

Danger Zone

現在Gmailが落っこちてます。完全に落っこちてるわけではないけど、ウェブ経由もPOP3もだめで、IMAPだけ可能な状態。IMAPも多用してる俺はぎりぎり大丈夫だけど怖い状態。Gmail blogではまだ公式発表されてないけど、Groupsのほうで中の人が完全復旧まで数時間かかるとアナウンスメントしてる。ふにゃふにゃ。

家に帰っても寒いだけなのでマックでコーヒー飲みながら本読んだりしてます。最近やっぱり年齢を感じるのは、ちんぽ握りながらいいおかずないかなーとシコシコしてても、あんまりいいのが見つからないと途中でやめてしまうことがあります。二十歳のころは、何がなんでも最高のおかずで射精するまで、それこそ何時間でもかけてオナニーしてたことを思うとやっぱり月日の流れというのはどうしようもなく精力を奪っていくものです。ただし精力が減ったとしても性欲が減ったのかというとそういうわけではなく、性欲は今でも全開なんだよね。可愛い女の子見るとおっぱいとおまんこのことしか考えないし、セックスして中出しすること想像して勃起しながら歩いてることなんて日常茶飯事です。

ボクの育った家庭はたぶんとても平凡な家庭だと思うんだけど、唯一ちょっと風変わりなところがあるとしたら、冠婚葬祭に対してまったく興味がないというところだと思う。うちの兄貴は結婚式挙げてないし、姉貴の夫婦は婿の実家の要望でやったんだけどボクは出席してない。確か普通にバイトしてたと思う。別に祝う気がないとかそういうことじゃなくて、式典というものに興味がないのだ。または、「フォーマル」というものがないのかもしれない。わざわざ式というものをやらなくても生きていけるならやる必要がない。

だからボクは二人の祖母の葬式のどちらにも出席していない。これも出席するつもりがなかったのではなく、そもそも呼ばれてないのだ。母方の祖母のときは、夏に帰省したらいなくて「おばあちゃんは?」と聞いたら半年前に亡くなったと聞かされた。父方の祖母は東京に住んでいたんだけど、父から明日祖母の葬式で東京に来ると言われてボクは出なくていいと言われたし、両親も葬式の次の日には隅田川の屋形船に乗って観光していた。あまり平均的な家族の葬式の形ではないだろう。

しかしだからといって冷たい人間たちだとは思わないでほしい。ボクは人の死を辛いもの、悲しいものだと思っている。でも死は死なのだ。それ以上でもそれ以下でもない。ボクらは長くてもたった数十年後には死ぬし、数分後に死ぬかもしれない。マクドナルドの帰りの階段を踏み外せばそれで生は終わる。生命の生など、物理的な状態からみればとてもアノマリーなもの。いつ崩れてもおかしくない。いや、崩れるのではなく通常へ戻るのだ。死こそ世界のあるべき姿と言ってもいい。

そもそもボクらは生きていると言えるのだろうか。脳死の判定が問題になるように、生と死は決して分断されたものではなく、連続的な状態だ。ボクが生きていることと、ボクが死んでいることの間に大きな違いはない。ボクが、生き…

ボクには一切「自分の子」という感覚がない。今のところボクの遺伝的形質を受け継いだ人間は存在していないけど、例えいたとしてその人間と他のあらゆる子ども(たいていの場合それは子どもと呼ばれるカテゴリに含まれるだろう)の間に大きな違いは感じないと思う。それに対する監督責任は比較的大きく持つことになるだろうけど、子どもというのはボクにとって社会的な関係であって一切生物学的な関係は考慮されない。だからわざわざ受精卵を他の母体に移して産んでもらう、なんてのはボクの目には新興宗教にハマった人間の狂信的行動にしか見えないし、もしもボクの家の前に赤ん坊が捨てられていたらボクは何のためらいもなく育て始めるだろう。ボクが捨て猫を2匹拾ってきて育ててるのも同じ理由からだ。(動物と人間は違う?誰かそれを論理的に区別できる?ノーだ。)

ボクらは単なる脆弱な情報の総体で、社会的に代替可能なエイリアスに過ぎない。だから誰かに求められているときにだけ存在している。君が目をつむれば、ボクは消えてしまう。君のクチビルという幻想。例え幻だとしても触れたくて。ボクらは死にゆく。ほら見てごらん!君とボクは幻灯機に映った操り人形!中身なんてないの。ただちょっと脳漿の温かさが見せてくれた、一瞬のゆらめき。箱の中に目の落ちた人形が?それが


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