Friday, December 19, 2008

サイボーグ

ボクの出身の学部には高橋透という教授がいて、彼はサイボーグ論を専門にしている。科学技術の進展により身体に機器を埋め込むことが当たり前になる時代も近く、そうなったときにどのような倫理が求められるのか、生まれてくるのかということが彼の専門だと言えるだろう。

サイボーグ・エシックス (水声文庫)サイボーグ・エシックス (水声文庫)高橋 透

しかし個人的な感覚で言えば、もうサイボーグ論は古いと思っている。サイボーグ論とは我々の身体と機会の間に境界があり、その融合を問題にするわけだけど、ボクはそもそも最初からその境界があるとは思っていない。ボクたちは生まれたときからサイボーグだし、機械的身体を持っている。それが後から付け加わったものなのかどうかなどどうでもいいことなのだ。そもそも世の中には無駄な区別が多すぎると思う。化粧とタトゥーと整形に違いはないので俺はタトゥー入れることになんのためらいもなかったし、カツラと地毛に違いなどないから剃ろうがカツラかぶろうが一緒だ。

医療が未発達であった時代には子どもといえば母親から遺伝子を引き継いで物理的に生まれてくるものであったけど、現代では代理母や精子バンクなど多様な環境により子どもは産まれてくる。そのような状況においては、「親」というのは固定的な単独の概念ではなく、複数の素性の束として考えなくてはいけない。さらに「育ての親」という言葉があるのだから、遺伝子関係なく親子の関係は成立するし、文化史的に考えても遺伝子は必ずしも親子の基本概念ではない。ボクは戸籍というのはただの管理用書類でなんの重要性も持たないただの紙切れだと思っているので、そうすると「親子」という言葉は生物的にも社会的にも根拠を持たないあいまいな概念なのだ。決してボクは親子というものを否定するつもりはない。でもボクはその意味で親子というのが確定したものだとは思ってないし、当然友だちというのも同様に固定的ではない。だからボクにとってはすべての人間が親だし、兄弟だし、友だちなのだ。これは別にラブ&ピース的なことを言っているわけではなく、逆にすべての人間はボクの敵だとも言えるということだ。

ボクの中ではこの手の議論はもう終わってて、ボクの中ではもうサイバネティックスの準備が始まっている。ボクは好きだという感情を隠したりしないし、オナニーを何回してるかを言うことが恥ずべきことだとも思っていない。それは、近い将来脳は拡張され電脳化が始まったときに、そんな情報は隠すことに意味がなくなるからだ。ボクは10年以上前からもう準備を始めてるのに、2008年になった今でもそのことに気がついている人間が少ないのは、中学生のときに予想していたよりもかなり遅い。サイバネティックスは技術の進歩のことを指すのではない。情報と身体に対する考え方のことを指すのです。そのことに気がつけば自分がサイボーグであり、情報はあらゆる側面で共有化されていくことがわかるでしょう。こういうこと言うと不気味がられそうだけど、ボクは歩いていると目の前に見えるものがすべて情報化されていき存在が情報として立ち上がってくる瞬間がある。今はまだボクの脳に能力がないのでその情報を処理しきれないけど、これが処理できるようになれば、ボクという個人はもう必要とされなくなるだろう。

raining

きっと明日の夜には

僕はこの世界からいなくなり

叫んだ声は雑踏に消えていくのだろう

雨がすべてを流してくれるのならば

僕はこの世界からいなくなる

だからもう一度だけ

君の名を呼ぼう

君に届かなくても

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