Monday, June 18, 2007

ドライマティーニ

おまんこなめたーい!

(オリエンタルラジオのあっちゃん風に)

羽尻さんと渋谷のバーに行ったのでドライマティーニを頼んだんだけど、よく考えたらボクはジンベースのカクテルってちょっと苦手だったんだ。ジンが嫌いなわけじゃないけど。組み合わせると苦手っていうのは誰にでも当然あると思うんだけど(あんことバターを一緒に食べようと思う人間は少ないだろう)、たまに忘れられてるときがあるよね。サブウェイでサンドイッチを注文するとよく「お嫌いな野菜はありますか」と聞かれるのでボクは「嫌いな野菜はないけどオリーブを抜いてください」と答えます。嫌いなのとサンドイッチに挟みたいのは別なのよ、と言いたい。どこでもいつでも話出すと止まらない羽尻さんと違ってボクは大人なので黙ってますが。

しかし東京に住んで7年、一ヶ月に一度くらいは渋谷に行きますがいまだにアウェーの空気を感じるのはなぜだろう。それはともかくすんげー美人を見るとなんだか胸が締めつけられるような感じがするのですが、これは恋の病だろうか、と友人に話したら「別のビョーキやね」と言われました。

美人といえばこの前歩いてるときにむちゃくちゃ紅音ほたるに似てる人をみかけた。ボクは人の顔をざっくりとしか覚えないので(パターン認識としてはじゅうぶん高度な処理だ)、本当に紅音ほたるかどうか自信はないんだけど、ともかく異様に美人でした。

昭和の曲をよく聴くせいで、最近カルメン・マキのファンになりつつあります。今度ライブ行こうかなー。

金曜日はTSUTAYAの半額デーだったのでアルバムを22枚借りてきました(笑 22枚っていうと多く思えるけど、レンタルで半額だとこれでも3000円にならないんだよね。CD一枚分にもなってない。HDDに音楽を貯めてく人間が増えるってことは確実にCDの販売枚数を下げる原因になってると思うけど、ボクみたいにとりあえず借りてみるって人間が増えることは音楽を拡げることに繋がると思うので悪いことじゃないと思います。しかし借りたアルバムのほとんどが2枚組なのでこれだけで48時間くらいある。週末だけじゃ物理的に聴くことができない。とりあえずブログの横にあるブログパーツには当分懐メロが表示され続けると思います。

風船クラブの新刊『恥母宮』を買いました。今回も職場の大学生協で注文しました。相変わらず表紙が露骨すぎてちょっと買うのが恥ずかしいですね(笑 今回は2編収録されていて、最初のが表題作の『恥母宮』。肛門にしか興味のない息子と母親の母子相姦モノ。2編目『発情宮』は母親と教師が共鳴してエロくなってしまい、それに混ざる息子、という感じ。変態度では恥母宮、エロ度では発情宮かな。恥母宮に少し輪姦がでてきたけど、一切マンコなしだからなー。ボクにとってアナルはセックスを楽しむための一つのプレイであって、メインじゃないからもっとマンコを使った輪姦を見たい。

というか風船クラブってまだ今でも絵が変化してるよね。全体的なデッサンも変わってるし、今まで見たことのないエロい表情も描けるようになってて勃起します。あとがきを読むとこれからは熟女とショタモノ路線で行くそうで、ボクの好みなので嬉しい限りです。恒例のセリフの抜きだし。
おあああっ!
イクッ! 私も…
イグぅああああ あああああ―――――
んはぁあ もっと…
もっと!
一杯… 休まず…
気をやるのぉおおお――!
あひっ!
ひぃいいいい
あへぇ…
んはぁ
おほぉおお おおお!
んああああ! イグッ!イグッ!
スケベマ●コはじける! お尻燃えるぅう
んひぃいいいっ
止まらないぃい!
あぎぃい! ズボズボイクッ!
またイクっ! 七回目―― ひぃいい死ぬぅうう!
んぉおお もっと!
もっともっと!
もっと…
イクぅううう!
あがぁあああ オチ●チン… こわれるぅうう!
しかしいまだにこの「気をやる」って表現は風船クラブでしか見たことがないんですが、風船クラブのオリジナルなんでしょうか?

競技用けん玉 新さくら (赤)
競技用けん玉 新さくら (赤)
生協のチラシにけん玉が載ってたので注文してみたら、むっちゃちゃちいおもちゃみたいなけん玉がきたんですが(まあけん玉なんでどれもおもちゃなんだけど)、一度けん玉がやりたい欲がでてきちゃうと抑えきれなくて探し回って検定けん玉を買ってきました。Amazonでもあるのは知ってたけど、即日で欲しかったもので。運良く3軒目の文房具屋で見つけることができた。けん玉するのなんて10年ぶりくらいなんだけど、こういうのって意外と体が覚えてるもんですよね。ボクも小学生の時はかなりやりこんだほうなのである程度の技はできたんですが、今やってみてもたいていはできる。

しかし今回買ったのは単にけん玉がしたいというだけではなく、利き手ではない右手でけん玉の特訓をしたいという思いがあったからです。ブログでも何度も描いていますが、ボクは左利きなんですが中学のときから両利きへの強い憧れがあって、それ以来訓練の結果鉛筆と箸は右でも使えるようになったけど、それでも断然左が優位のままです。今でもカバンは右でしか持たない、とかルールを決めて訓練してるんですが。そこで今回新しくけん玉を右手でやり始めたわけなんですが、これが難しいなりに面白い。左手に比べると成功率は半分くらいになるんですけど、半分の成功率ってのは一般的な片利きの人と比べるといいほうじゃないですかね? けん玉には普通の技とともにオリジナル技もいろいろ発表されてるんですけど、両手でやる技ってのはほとんどないからこれからもっと鍛えればボクオリジナルの技がいっぱい作れるかもしれません。うわーい。

でもボクは単純な両利きに憧れてるってのはちょっと違うかもしれない。ボクはうまく使えないこの右手を無理に使ってるときの「うにゃあ」って感覚が好きなんだよね。よくオナニーをいつもと逆の手でやると新しい感覚になるって言う人がいるけど、それに似てるかもしれないw ただ理解しにくいかもしれないけど、もし例えばなんかの拍子に「右手か左手を切り落とさなければならない」という状況になったらボクは確実に左手を選ぶと思う。これは例えるとなんだろう、左手はボクがいなくてもやっていけるけど、右手はボクがいないとだめなんだ、みたいな? ボクは言うことを聞いてくれないボクの右手が大好きです。

きっかけは特にないと思うんだけど、13歳というのはけっこうボクの中でクリティカルな時期で、そのときからボクは自身の意識と身体のコントロールということに目覚めたと思う。それ以来身体をどうコントロールするのか、コントロールしなくてもどういう環境で身体がどう反応するのかを観察してきている。確か最初にコントロールできるようになったのは、鼻の穴を広げるってことだった気がする(笑 次が手の中指と薬指を拡げること、その次が足の指を広げる。ペン回しがそこそこできるのも指のコントロールの一環だ。

しかしいまだに感情のコントロールはできないままだ。それでも一つ決めていることがあるとしたら、ボクは死を選ぶべき存在であるということだろう。

ボクは基本的に自殺願望がない。一時的な発言を別にして、継続的に死にたいと思ったことはない。だからこれは欲求ではない。ただ単純に、自らのコントロールということに興味をもったときから、同時に死ななければならないという義務感が生まれた。ボクが生きていくということは、意識と身体のせめぎ合いなんだ。死ぬことができたのなら、きっとボクは身体の呪縛を抜け出すことができる。だから、きっと、ボクは身体のコントロールを練習しながら死への練習を繰り返しているのだと思う。忘れようとしていても、たまに脳裏を焼く焦燥感がそれを思い出させる。

絶望ではなく、希望でもなく、永遠のトランスペアレントとしての死。

ただそこに願望があるのなら、誰にも知られずに消えていきたい。
何も残らないのがいい。誰の記憶にも。
ボクはいなかった。
しかしそれも杞憂だろう。
ボクらは2000年前に生きてた誰かのことを知っちゃいない。
2000年後には誰もボクらのことを覚えていないだろう。
だから心配しなくてもいい。
ボクはいない。
この世界のどこにも。








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