Saturday, March 3, 2001

ログ29('01 03/02~03/26)

03/26(mon)

○不動産屋から電話があって、引っ越すのは5日か6日くらいになった。それまで家なしってことか。Dか紳介の部屋に居候することにしよう。東西線沿線にある紳介のほうが便利だな。

○最近、壊れそうなくらいのギリギリの感情のラインに立つことがない。どうやら、睡眠を多くとって健康に近い生活をしているからだな。生活がゆったりすると思考もマイルドになるようだ。そろそろまた言語活動を開始しようか。

○天体について。ブラックホールとは何か、というときその言葉は基本的には言葉の対象、存在者としてのブラックホールを明らかにしようと思っているといってよいだろうか。では、科学とは何か、という問は科学を対象にしているのだろうか。人間の活動を抽象化してその一部に名を付けるとき科学の名を冠してもよいだろうか。それならば、意味とは何か、と聞いたならばその対象は何か。そこに対象はない。求められているのは曖昧な輪郭に与えられるべきライン。つまり定義だ。

しかし定義の根拠もまた意味による。意味がなければ定義も成り立たない。意味が語用だと言うのならば我々はまた語用の総体を対象として定義を確立しなくてはならない。しかし、見誤ってはならない。語の円環の原因は、この定義と意味の繰り返しにあるのではない。それは、我々は一度たりとも定義と意味付けをすることなく語を正確に使える、という事実からでてくるのだ。それこそを解明しなくてはならない。

03/25(sun)

Art of life
I try to stop myself
But my heart goes to destroy the truth
Tell me why
I want the meaning of my life
Do I try to live, Do I try to love
in my dream (Yoshiki)

03/24(sat)

Grammar is based on usage. A grammarian has no more right to say how people ought to talk than a chemist has to say how molecules ought to act upon each other. The laws of grammar are like the laws of any other science, simply generized statements about what does happen, not directions about what should―and they are subject to change as soon as any evidence come in.

03/23(fri)

○バイトをしたり、本を読んだりして怠惰な生活中。昨日春からの講義用のシラバスとか科目登録要綱とかが届いた。うちの大学は卒業単位が124で、1年次の割り当ては上限42。つまり、月から金の5日間に2コマ/日でとればいいということだ。俺は出たいから勝手にもぐって出るけど、必要単位数だけじゃまったく勉強にならないという気がするのは俺だけだろうか?一つの学業を修めるのに4年間は短すぎる。院で過ごしても触りだけ。人生をかけても全体像をみるのは困難を極める。それがたった一つの小さな分野であっても。そんなことをひしひしと感じる麗らかな春の日。

○昼過ぎからでかけて明菜と会ってきた。特にこれといったことはなかったけど、まあ楽しかったかな。最近何やってるかとかそんな他愛もない話。時間があったので本屋に行って散策。丸善の前にできた新しい本屋だったんだけど、言語学関係がけっこうそろっていたな。だけどもう使うことはなくなってしまうだろう。本はウィトゲンシュタインの「反哲学的断章」を買った。ウィトゲンシュタインのテクストを読んだことがない人にはなんのことかわかりにくい本かな。逆に「哲学」をしてる人には必要ないのかも。僕はウィトゲンシュタインの「ファン」でもあるので面白いと思う。

03/19(mon)

○昨日はDが家にきたので OED を自慢しておいた。そうしたら奴はロスで買った英語版のチョムスキーの解説書を持っていた。かなりうらやましい。まあいい。春になったらアマゾンででも仕入れればいいんだ。

○今まで英英辞書を持っていなかったので買いに行った。いや、OED も英英なんだけど、あれはさすがに日常的には使えない(笑)(あの、辞書ってのは日常的に使うものだよね?) 小林先生にコリンズ社の COBUILD ENGLISH DICTIONARY ってのを薦められていたのでそれを買った。でも、「品詞に関係なく頻度の高い語義順に並べてある」という試みは、面白いんだけど、英語学のときには使いにくくなることもあると思ったので OALD (OXFORD Advanced Learner's Dictionary) 6th edition も買っておいた。家に帰ってからちょこちょこ引いてるけど、両方違った特色があって面白いね。ただ OALD の6版は定義語を減らしているせいでわかりやすいけど厳密ではない、という弱点があるかもしれない。そのうち5版も入手するつもり。英英を使ったことがない人は一回試してみるといいよ。ある程度以上英語に慣れてる人は絶対英英のほうがわかりやすいと思うな。

○でさ、ファストフードで辞書を引いてたのね。僕は店員と顔見知りで、彼は来年大学を受けるそうなんだけど、僕が東京においでよって言ったら、彼さ、「あ、大学受かったんですね。勉強してるからだめだったのかと思ってました」って言われたのさ。あのさ、大学ってのはなにしに行くところなんだい?まあしゃあないか。人生へのモチベーションの違いってやつだ。

03/17(sat)

○また数日間バイトしてた。何日か前に中京大学に電話をかけて田中克彦教授にアポイントメントをとろうとしたんだけど留守だった。伝言を自宅にまわしてくれと頼んだら代わりにFAX番号を教えてくれたので送っておいた。そうしたら今日返事の手紙が届いた。3月中と4月の頭はどうやら忙しいので会うのは4月中旬以降になりそう。楽しみだ。じゃあ4月の頭は池上嘉彦教授に会うことにしようかな。池上教授は東大だからアポなしで一回直接行ってみようと思う。

○友人の酒井君が、イギリスに行くので少し英語を教えてほしいと言われたので、たまに会って教えている。そのときに A person who has achieved success early in life may become bored with life. という文章で [in life] は [in the life] ではいけないのか、と聞かれた。僕はこの文章でならどっちでもいいと思うんだけどどうでしょ?言葉の意味を深く考えて、 a person の人生に特定するのが適当だと判断するなら the がいるけど、普通話してるときなんてそこまで考えないしなあ。だから正確な意味を捉えるならば the があった方がいいけど、普通はないほうが言葉が滑らかに行くからそっちのほうがいいと思うな。で、英語学習においてでもよく冠詞の [a] とか [the] 、単複数形なんかは判断しにくいって言うけど、それは人間の脳ってのがちゃんと大事なこととそうでないことを判断してるからなんだよね。[the] がいるのかどうかなんて語学習得にとって最後に習うことでいいし、三単現のSを忘れたから減点するテストなんてのはナンセンス以外のなにものでもない。それどころか時制だって間違えてたってかまわない。そういう、当たり前のこと、外国語の習得は難しいものではないということを隠してしまう最大の弊害が入試というものなんだ。英語に限る必要性もないけど、外国語を習うことは僕も絶対に必要だと思う。だけど、英語が一番大きなウエイトを占める現在の入試問題は歪んでいるといわざるを得ない。その意味では僕は慶應大学文学部のあの超長文問題は意外と良問だと思うんだよね。確かに高校生が解くには内容が難解過ぎるということはあるけど。大学の入試問題を見ていると偏差値上位校の英語問題は2方向に分かれている。つまり、片方は瑣末なことを取り上げて点数差をだそうという問題。一方がより内容を重視した、「国語」の力を試す問題。だから僕はあえて普通は悪問と言われる問題を推すわけなんだ。

○三日間くらい暇なのでちょっと友達と遊ぼうかなと思ったんだけど、今Dがロスに行っていていないんだよね。そうしたら誰もいないことに気が付いた。

03/14(wed)

○広辞苑より

ぜんりつ-せん 【前立腺】
 男性生殖器の後部尿道を囲んでいる分泌腺。膀胱下に密接し、骨盤底に位し、腺から出る約二〇本の導管が尿道に開口する。その分泌液は精液の一部をなし、精子の運動性を活発にする。栗の花のような特有の臭気がある。前位腺。摂護腺。

これのせいだったんですね。

03/13(tue)

○メイラのアドレス帳が消えてました。メイルは残っているのでだいたいの人はアドレスわかるんだけど、つい先日古いメイルをほとんど消去したところだったので、最近連絡をとってなかった人はもうわかりません。あしからず。

○この前テレビで(「てれび」を変換したら「(* ̄ー ̄*)び」になってこっちが照れてしまった)英語のRとLの発音をどうやったら習得できるようになるかってのをやってたんだけど、その研究者としてATRの人がでてた。ATRって確か羽尻さんが前にいたところだよな。なんかのときにも聞いたことがあるし。それらに人が研究してる内容から考えるとかなりおいしい研究所みたいだな。俺も将来考えておこう。RLの発音についても思うことがあるので、そのうち書きます。

○暇つぶしに買った丸山圭三郎の「言葉・文化・無意識」を読んだ(講談社から出てる同著者の「言葉と無意識」とは別の本)。講演を起こしたものらしく、内容はそんなに難解なものではなかったのでけっこうあっさりと読めた。前々からソシュールとフロイトがどうして同系列で語られることが多いのかよくわからなかったので、その点を理解することができたのは収穫だな。もう一回「現代言語論‐ソシュール ウィトゲンシュタイン フロイト」を読んでみよう。丸山が自分のことを「私は言語学者ではない」と言っているのは意外だった。てっきり私は丸山を言語学者だと思ってたから。それともどこかでそのことについて語っているのだろか?なるべく早めに「ソシュールの思想」(丸山)を読まなくては。

○ただ、よくDには話すことなんだけど、僕は言語の心理面、例えば語用論(pragmatics)とかにはそんなに興味がないからね。だからソシュールにしても晩年のアナグラム研究なんかには興味がないし。僕は言語の論理性とかそこに意味が付与される過程が知りたい。それに、これもよく友人には言うことだけど、俺は心理学が嫌いだ(笑)

03/12(mon)

○小林先生と食事をしてきました。受験の話や言語学のことなんかをいろいろと。で、約束の「言語」28年分をもらっちゃいました。聞いていたのは10年分だったので嬉しい意外性。半年で読むつもりだったんだけど、丸一年以上かかりそうだなあ(にやにや)。それと、なんと、あの The Oxford English Dictionary までもらったのです。おいおい、OEDだぜ?大学生ごときでOEDもってる奴なんてどれだけいるんだ?つーか本職でもそうそうもってないだろ。もう頭くらくらするくらい嬉しい。それと、今までロクな英和を使ってこなかったと言ったら英和辞書までくれたし。さらに欲しい本があったら持っていって良いとまで。もう垂涎もののものが山盛りあったんだけど、「言語」とOEDだけで多分100kg以上なので今回はそれだけにしておいて、また今度もらうことにした。これで言語学できないなんて言ったら嘘だぜ?それにしても、OED欲しいって書いたばっかなのに、一週間もしないうちに果たされるなんて。夢でもみてるんじゃなかろうか?ある意味大学に受かったことより嬉しいかも。今夜は抱いて寝よう(いきなり枕か!)

03/11(sun)

○金曜土曜と少しバイトをして小銭を稼いでいた。その分英語なんかをしている暇がない。貧乏学生が奨学金を得るには良い成績をとらなくてはいけないわけで、良い成績をとるには勉強しなくてはいけなくて、貧乏学生にはその暇がなかなかないという矛盾を垣間見る。受験英語に浸っていると「という矛盾を垣間見る」と見ただけで I feel contradiction that って同格の that が頭に浮かぶ。ま、いわゆる受験英語でも極めようとすれば遠回りであっても使えるようになりますよ。

○どっかの予備校のCMで「大学って、名前じゃないよね」って言ってたけどさ、まあそれはその通りだと思うよ。でも、他の規準で選ぶにしても例えば教授陣とかでも絶対偏差値上位校のほうが良い先生揃えてるんだよね。施設とかも基本的に充実してるし。それから学費も安い。はっきり言うと、大学は名前ではないけれど、だからといってそういう事実を無視する奴は負け組だね。名前が売れてる大学ってのはあんまし無根拠に有名なわけじゃないんだからさ。それに、そういう学校って結局自分がいくら頑張ってもまわりがそれなりの奴しかいないしね。やっぱ回りに自分をインスパイアしてくれるような奴が多いところがいいと思うし。最初から遊ぶことを目的にしてるならそれもいいと思うけど。俺は別に遊びが目的で大学に行ってもいいと思う方だからね。ただ、そういう奴が言い訳で名前じゃないっていうのは少し腹が立つ。大学側にも問題がないわけじゃないけどね。パンフレットにせめてシラバスくらい封入するべきだと思うぞ。

○relation と relationship を訳しわけるとしたらどうすべきか?最初に僕は relation は「関係」で relationship を「関係というもの」にしようかな、と考えた。しかし、逆から考えると日本語においても「ばか」と「あほ」を正確に区別しているだろうか?かと思うと「ばか」「馬鹿」「バカ」を区別して使うときもある。言語の現場、つまりパロールとしての言語は辞書的な定義を逃れ行くものであるからだ。そこにおいては relation と relationship の違いは明示的なものではなく個人の選択に与えられた違いになるのであろう。僕はもともと「正確な訳」という言葉は成立しないと思っている。それはある程度の指標を越えるものではない(このことについてはいつかきちんと書こうと思っている)。culture を「文化」と訳せるのは高校生までで、英語に真正面から取り組むならそれで満足していてはいけないだろう。relation と relationship の場合、そこに必ず差異はある。差異のない言葉は存在しないからだ(一般言語学講義より)。だが、もしかしてその差異は relation と「関係」の差よりも小さいかもしれない。その場合の埋め合わせはどうすればいいのか?それはもはや受動的な学習では知ることはできないだろう。学習者が積極的に relation と接することによって身に付いた身体的感覚こそがその差異を明らかにする、、、、ということを考えていたら昔の偉い人の言葉を思い出した。

「語の意味とは、言語の中におけるその用法である」L.Wittegenstein 哲学探究

いつまでたっても追いつけねえなあ。

03/08(thu)

○基督教団の靖国・天皇制問題センタ、というなんじゃそりゃ級に怪しげな肩書きを持つ人と話をしていて(もう少し話をすると肩書き以上に怪しげだとわかる)、名刺をもらったのだが、その事務所の住所がなんと春からの私の住所とほとんど同じだった。家に帰ってから地図で確認すると徒歩2分。やった。これでたまにはまともな飯が食える。

○受験業界ではMr.Kの異名をとるある大物予備校講師からFAXをもらって、今度の月曜日に会って食事をすることになった。そのときに憧れの雑誌「言語」過去十年分をもらえるらしい。マージーデー嬉しい。食事のときテレコ持っていって録音しようかと思っている。

03/07(wed)

○思い出はここにあり、人は有限の旅を続けようとする。あのとき別れた少女の横顔は今でも鮮やかなまま。刹那の出会いと名も知らぬ別れ。多分僕らはそうした輪郭を信じて生きていく。青春を通りすぎた者は。幾多の挫折を繰り返し、世界の中を進んでいく。もう一度、あることを信じていればこそ僕は口を閉ざす。消えない苦しみは今もこの胸に。それは君の笑顔とともに。ひとときの眠りと、kissを。

○言語とは何か。それは、我々をしてこの種にあらしめる根本原因と言われてきたが、我々はそれを享受して良いのか。思考の過程において言語はツールであり、前提に思想があると言えるのか。幾多の疑問を前にして我々はそれらは結局のところ言語だけがそれに答え得る可能性を持つということに気づくことになるだろう。あらゆる種の思考も言語を超越することはできない。しかし、そうであるならば言語を規定する範囲は何を持って定められるか。それは、自己規定的である、と言える。しかしその過程を反省してみるならば、言語は必ず人間の活動内に存在するものであり、無意識であるか否かはともかくとして、言語が我々を超越しているとは言いがたい側面を持つこともまた確かであろう。言語はどの場合においても我々の手中にあり、その限りにおいて人間を規定し、規定されているのである。通時態は必ず個人の幻想であり、共時態は必ず個人の言である。言語は実体を持たない。心性が他者に対するコミュニケーション可能性への見做しであるとするならば、言語は他者との意味に対するコンセンサス可能性への見做しである。心性において我々が孤独な球体であるとすれば、言語において我々はそれぞれが独自の固有語を持っているのである。

03/06(tue)

○昼間、用事で千種に行ったついでに古本屋に立ち寄って「講座・記号論」全四巻を6000円で買った。前から狙ってたんだゥ 記号について日本の言語学者達がそれぞれの立場から考察したアンソロジー的な本になっていて、内容もさることながら自分の学校にどういう人がいるのかを知ることもできる。著者一覧を見るとなぜか立教大の先生が多い。そういえば従兄弟が立教は意外と思想系の講座が多いと言っていたな。ちっ。なんとか3月中に読み終えたいと思っている。

○English Dictionary を買おうと思っているんだけど、どれがいいのかわかんない。誰か Oxford English Dictionary 安く売ってくれ。辞書に囲まれた生活。ゾクゾクするくらいいい響きだと思わない?

○テレビで伊藤家のなんたらっていう番組を見た。いろんな技(?)みたいのを紹介するの。んで、「暗算の天才に見せる」ってのがあったんだけど、俺みたいな人間はそれを聞いただけで、ああ、ガウスだろ、とか言っちゃうんだよね。その通りガウスの定理を使ったやつだったんだけど。数学に憧れを持つ人間の悲しい性だね。自分じゃできないけど、知識だけは集まってしまう。一年くらい前に自然対数eの概念を発見したことがあったけど、あれは神様が数学に憧れつつもできない人間にただ一瞬だけの閃きを与えてくれたのではないか、と思うことがある。そういえば、自然対数ってガウスが見つけたんだっけな。もう一回でいいからあの瞬間を味わえないかなあ。

象徴の特質は、恣意性に徹しきらないところにある;それはうつろではなくて、能記と所記とのあいだにわずかながらも自然的連結がある.(F.ソシュール「一般言語学講義」)

03/04(sun)

○そうだなあ、だけどやっぱり主税教授の手法はあくまでも「政治的」なんだよね。社会への働きかけを考えるならそれもアリかもしれないけど、僕はやっぱ真実を語ることの正しさ、学術的手法を信じているからあくまでも事実のみを語ることが最終的合意への近道だと思うなあ。それに、反動的なやり方は過去の歴史から見ても問題の先延ばしで、結局目先の問題は解決できても新たな問題を生み出すことになると思うし。やはりここの具体的な事例を語る前により根本的、抽象的な段階から切っていかなければならないだろう。英語と日本語の問題を語る前に言葉とはなにかを、人種差別、性差別を論じる前に人間、性、差別とはなにかをラディカルに問わなければならない。その判断のもとに初めて学術的操作と政治的操作は袂を別つべきではないか。なにか、無根拠な前提条件を問わずに議論を始めるとその基盤が違う人、集団とは永遠に合意に達することがなくなってしまうだろう。私、達はまず事象を見極めなければならないのである。

I know now that we can suffer while we speak. But I believe in the truth. Do not deceive yourself. You will wear out your life unless you give up hope and face the truth.

03/03(sat)

○星ヶ丘方面に用事があったので、それを済ませたあとについでで椙山大学によってきた。アポイントメントなしで加藤主税教授の研究室に行ったのだけど、運良く話をすることができた。多分春休みで学生もいないし静かに研究ができるからだろうね。私はそれを邪魔しに行ったわけだ。前に話を聞きに行ってからかなり経っているせいもあり、私も成長したので英語と日本語の社会的関係についてかなり込み入った議論をすることができた。私は以前主税教授をこてこての保守主義の学者だと思っていたのだけれど、反動的保守だということがわかった。つまり、例えば男女の平等を論理的に議論する場合女性の優越性は本来出してはいけないわけだけど、社会的に思想を行き渡らせるにはあえて女性の男性に対する優位を強調するのも一つの手である、という考え方がある。主税教授は、同じように日本語と英語はどちらが優れた言葉だということは言えないし、そもそもそんな議論はナンセンスなんだけれど、現状のまるで英語が優れた言葉だというような風潮を正すためには「日本語も英語も対等な言葉だ」という真っ当な言説だけではなく「日本語は素晴らしい」という、より先進的な思想を導くためのわざと批判の余地のある言葉遣いをしていたわけです。細かい部分では意見に相違ももちろんあったけれど、以前よりかなり合意できることが多かった。これは、多分私が成長して教授からより高度な意見を引き出せるようになったからだと思う。

○他にも森首相批判などにおけるマスコミの誘導性や人種、部落差別、宗教問題に対するスタンスなども話し合ったけどその辺はほとんど同意見だったかな。帰り際にライフ企画から出てる「嫌われる人々~女子大生が見た嫌われしぐさ~」という著書を頂いた。パラパラと見てみたが、全部読むかどうかは未定。私は知らなかったけれど、ボディパーツ占いというのは主税教授が考案したものらしいです。

03/02(fri)

○帰宅。家は学校から徒歩5分のところにした。8:30に起きてもコーヒーを飲んでから一限に間に合う。キャンパスの端から端までより家のほうが近い。「毎日同じ時間の電車に乗っていていつもみかける女の子と目があって彼女が下りた後ふと気が付いたら定期が落ちていて」っていうのがなくなっちゃったのは残念だけどね。

○帰りの新幹線での暇つぶし用に加賀野井秀一の「20世紀言語学入門」という本を買ったら既読だった。新書の言語学系の本はほとんど読み尽くしてしまったな。しかしまだ丸山圭三郎の「言語と無意識」は読んでいない。

○第二外語の選択パンフで仏語の要綱に「“私の言語の限界が、私の世界の限界だ”といった哲学者がいます。」と書いてある。仏語の案内に載せるかよ。とりあえず書類が山積みなので当分処理に追われそう。