Thursday, June 1, 2000

ログ27('00 05/31~06/19)

06/18(SAT)

Does the end justify the means?

○嫁イビリが死にましたね。個人的な呼び方表。(一部漢字知らず)

名前 呼び方 理由
昭和 ちょび髭・出目 外見。
皇太后 嫁イビリ 皇后の座った椅子には絶対座ろうとしなかったのは有名な話。
今上 リーマン どうみてもタダのオヤジ。
皇后 うどん粉屋の娘 日清製粉令嬢。
皇太子 ひろしさん 俺の従兄弟のひろしさんにそっくり。
雅子 水俣 ジジイの会社、水俣病発生源。
秋篠宮 なまずオヤジ タイでメスなまずの研究。(一部で有名な話)
きこ 貧乏人の娘 蔑称ではない。
紀之宮 嫁き遅れ そのまんま

06/16(FRI)

 駿河なる宇津の山ベのうつつにも夢にも人に逢はぬなりけり(伊勢)

06/15(THU)

ちょっと汚れたノートを取り出して
端に書かれたlivin' on love
辞書を出して引いてみる
いつからだろう こうして生きているのは
ノートを閉じて 目を瞑る

○ここ最近、なぜかBOφWYを聞いている。ONLY YOUがとてもいい。ほんとに10年前とかのバンドなのかと思うくらい。それとも、俺も古い時代の人間になってきたのかな。

 心なき雨にもあるか人目もり乏しき妹に今日だに逢はむを(万葉)

06/14(WED)

「左の方が右のものよりも少しく下方にあることが多い。」平凡社-世界大百科事典-

うわぁそうなんだー俺だけかと思ってたよー(ばくしょー)

○長野かどっかでモナザイトが隠匿されてたらしいね。核物質フェチとしてはわけて欲しいところである。オーストラリアのウラン鉱山に行きてー(先住民無視かよ)

○distance

 名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと(伊勢)

06/13(TUE)

○すっげえ偶然、と思ったことがあったがあとで公開されていて意味ナッシング。いや、インディヴィデュアルにはかなり面白かったのだが。

○言葉に関する考察で一つまとまりそうな考えがあるのだが、時間がない。「テクストとアートの相関的態度」、と言ったところか。

○世の中クダラネエことばっかだな、愛とか友情とか片腹痛いわ、と思ったので試しに片腹を切ってみた。かなり痛い。激痛。目が覚めるのでよしとしよう。

06/12(MON)

○土日は忙しく一回もパソコンに触らず。このまま2度と立ち上げないでおこうかとも思うがビジネスが絡んでいる以上できない。そういった柵が俺の生に混ざっていることがなによりも許せない。

○大輔が健康上の理由で名古屋に帰ってくるそうだ。

06/09(FRI)

○I was eating lunch (   ) she came in.

問1 空欄に入るものを選べ。
1) when ○
2) what ×
3) which △

問2 訳せ。
○昼食。
×お手盛り。
×御持ち帰り(死

06/08(THU)

○艱難汝を玉にす
×宦官汝の玉抜き(死

○Don't you love me? Don't you leave me.

 思ふには忍ぶることぞ負けにける逢ふにしかへばさもあらばあれ(伊勢)

06/07(WED)

○ウィトゲンシュタインのその人生を知らないことによって彼は読まれ、その著書を読まないことによって理解される。

○つまり、私の言葉はーそれがどんなものであれー誤読されることによってその真の価値を明らかにする。

○状況の示唆する意味をとりあえず考えずに、主観的にもっと沈んでみる。どうだろうか?それでもいいから、、、、。多分、優しさじゃあないな。

 ゆふされば蛍よりけにもゆれどもひかりみねばや人のつれなき(古今)

06/06(TUE)

記号を破壊しよう。自分の安定した記号世界に安住してはいけない。それを破壊しつづけていく勇気を持とう。他人にたいしては、あなたを一個の<記号>にして安心している連中を許してはいけない。つねに、自分を記号に固定化しないように、しなやかに変わっていこう。-立川健二「現代言語学」-

06/05(MON)

○帰りに新しい古本屋ができたことを思い出してよってみた。ちょっと探していた池上嘉彦の「意味の世界-現代言語学から視る-」があったので買う。いつ読むつもりなのか。

○それを買ってから幽々白書の1巻を立ち読み。立ち読みで泣いちゃいました。なんで僕ってこんなに感情を隠すのがへたなんだろうなあ。ギャグ系のマンガを読んでると声を出して笑ったり肩を震わせたりするので不気味です。でもさすがに恥ずかしいのであくびをしたふりをして誤魔化す。さぁ、どこで泣いたか当ててバリ島に行こう!(3ヵ所)

06/04(SUN)

○忙しくなると掃除をしたくなるのは世の習い。←こんなもの見つけました。

06/03(SAT)

思いせく胸のほむらはつれなくて涙をわかる物にざりける

身のうさをなかなかなにと石清水おもふ心はくみてしるらん

ゆくほたる雲の上までいぬべくは秋風吹くと雁につげこせ

05/31(WED)

○いつの間にこんな単純になったんだろう。こんなことでこんなに喜んでいる自分。それとも、これが環境への適応性?匣の中の少女は、、、、

○おとといのETV、青色ダイオードのやつを見られなかったのは痛いなあ(<LEDフェチ)。こういうとき、1バーンの半分くらい、ビデオデッキがあるといいな、なんて思う。しかしあったところでコレクションはエロビばかりになっちゃいそうなので、やっぱやめ。

○ローマ十二表法(違)

わ あ い う え お か き く け こ さ
あ あ い う え お か き く け こ さ
い い え か く こ あわ あい あえ あか あく あこ
う う か け あわ あう あか あけ いわ いう いか いけ
え え く あわ あえ あく いわ いえ いく うわ うえ うく
お お こ あう あく いあ いか いさ うえ うけ えい えき
か か あわ あか いわ いか うわ うか えわ えか おわ おか
き き あい あけ いえ いさ うか えあ えく おう おこ かお
く く あえ いわ いく うえ えわ えく おえ かわ かく きえ
け け あか いう うわ うけ えか おう かわ かけ きか くう
こ こ あく いか うえ えい おわ おこ かく きか くえ けい
さ さ あこ いけ うく えき おか かお きえ くう けい こあ

間違ってるところあると思う。暇な人、ぜひ探してみてください。そんで教えて。

 

06/19(MON)

○バイクに乗っているとつい体重を移動せずにハンドルだけに力を加え、そうすると曲げた方向とは逆に向かってしまうジャイロ効果で遊んじゃう。そうすることによって僕らは手を伸ばしなにを形作ろうとしているのだろうか?形質的な上下差ではなく遺伝的な非対象化。歪んでいるのは正中線?命を惜しんだものから落伍していくと言うのがポリシーで。だめなんだよ、本当に。シリンダーヘッドが飛び出るくらいのギリギリがなくちゃ生きていることを忘れてしまう。例えそれがを削ることになっても。なにかが違うこの人生。実存的な言語表現が視するコミュニケーションと非言語コミュニケーションの乱雑な一点化はブラーエに内在した幻想なのか(ただし、その幻想は幻想と呼ばれるそのことにおいてカフカ的な実在から離れ明瞭性を失う。そこに現れるのがデカルトであろう)。そう、現実が現実的であるとは限らないのだ。そもそも現実を指して現実的であると言うならば現実と言う言葉の対象とした現実は現実と言うラベルを失い現実であることをやめてしまう。それが柄谷の言う事後考察であって、だからこそニーチェは存在の12時の時鐘の振動を数え誤るというーそして、われわれ自身がわれわれ自身に知られていないともー。OK?いいかい、その存在がその存在であることは自明なことではないんだ。君がそう思うのは生活における理性的認識が規則を生成しているにすぎない。もしも君が言語的考察の反面を使用したならば事物の意味は転回し展開しアイデンティティーなどという下らぬものに付き合わされることはない。まったく、君が君である必要はないんだよ。いや、むしろ君は君であってはならないとさえ言える。君が君であると言うことは僕の個人的なローカルネットワークの構築したもっぱら意味の求心的な役割であって僕はそれを望まない。言葉はその吐き出された瞬間から劇化するが、ただ一点の対象を目指し事象そのものを希求する態度と生成される新たなる意味の輝きのアンビヴァレンスを恐れてはならない。君が君であると言うことはまさに事象としての君と存在としての君の戦いの場なんだ。君は君と言う事象にあってはならないし君は君と言う存在を見つめてはならない。自身を対象化したものの末路は捩れた枯れ木と相場は決まってる。そこでの方法はなんだろうか。ーここでも出てくるのはデカルトだ。デカルトの言うボン・サンスは対象の相対化と客体化の実質的エポケーを意味するか。ものを見ずに事象を見ろ。眼前に現れた空気は屈折率0としようではないか。そして事物は抽象的な概念とならざるを得ないが、そこでの概念はいかにも人間における視点とその相対的価値であることを忘れないようにしたい。エネルゲイアとエネルゲンをわけるのは最終的にも初見からも人間の言葉のなす技であるから。意味を付与した森羅万象有象無象の形たるものからたらぬものまで一切は己の鏡に過ぎない。そして分節化した言葉は己の存在と「己」の存在さえをも現実化する。自らのコードを捨て去ることはできないが、ある存在に迫ろうとするとき自らのコードの規範に縛られている限り決して存在を理解することはできない。逆説的には存在への肉薄は自己の解体とさえ言えるかもしれない。その次元で村上の自己の解体と変革は読まれるべきではないか。だけれどもそれとは違った意味で解体と言うことを考察してみよう。文字には多くの使われ方があるが、その一つに小説と言うものがある。小説にとって作者背景は必要であろうか。必要ではない。僕が読むのは小説であって自伝ではない。内部的完結性を持たぬ文章は文章足り得ない。想像を働かせる文章というものは言い換えれば即ち一意的な意味を持たぬ曖昧な文章であるということができるだろう。しかしそれ自体は小説と言うものの特異性を考慮すれば仕方ないことであると言える。だが作者はそれを自覚し批判はあらざる方向へも向けられることを了承しなければならない。読む人間は作者の意向など気にはしない。それを気にする読者は迎合していると言えよう。それは人物を読むと言う行為であって文章を読んでいるのではない。血を吐いて書いた一行も何気なく書いた一行も同等の価値を保有する。小林がそれを考慮し飛び越えぬ批評を書くと言ったのは批評家としての敗北宣言だったと受けとめられてしかるべきである。相手の事情をかき消す目標地点を目指した言葉こそが飛躍を許す(もちろん他に対してではなく究極的には己自身に対して)。自分の保有する過去的な遺産を感覚的に尊ぶ和文化やルソーを僕は認めない。あらゆる考察において考察され得ぬその言葉とならないものを捨て去ることによって保持される二律的言語の意味で文章は自立する。二つの中心点による自己破壊を全うする。浮遊する焦点を捨象する。すべての言語活動は同一律であるとともに矛盾律であり、無に帰す。

○そうして、僕は一つの終焉を控えている。どれだけ費やしたって最後には一点に集約されてしまうのが僕らの言葉だ。その権利を僕が自身で保有しているのは必然的ではあるが、僥倖であるとも言える。年月と言うには短く、しかしここ最近というわけでもなく。人間は、変容しても自己を保存していく生物ではあるが、振り返ることができる。この余計なお節介とでも言うべき偉大なシステム。言葉には論理的な側面が色濃くあり、誰もがそれに従っている。例えば「昨日は雨が降った。だけれども僕は傘を持って行った」とはなかなか言わないだろう(もちろんその発話状況を可能にあらしめることはまったくできないわけではないが)。それを突き詰めていけばほとんどのものに絶対的な答えは存在しないことがわかるだろう。だから藤原は断言することを差し控えたのだが。しかし僕はその前轍を踏まない、というわけでもないがなんとか断言する勇気を持とうとする。一つの決断にはかくも多大な論理の破綻を容認しなければならない。君にそれを思って欲しいわけではないが(こういう言葉遣いはえてして日本語的に捉えられがちであるが、なんとかコンテクストに拠らない言語的発話として考えて欲しい)、これを区切りにしてみようと思う。層を貫くユニヴァーサルを求めて。僕は行こう。向こう側へ。向こう側へ。

Be sure to drop me a line.

end////



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