Saturday, April 22, 2000

ログ24('00 04/21~04/28)

04/28

最後の4つ目の願い、、、、いつか、、、、会えたら、、、、(完)

04/27

大多数 変換したら 抱いた数 (今日の川柳)

公言した通り木曜日の更新だぜい。まさか本当に木曜日までぶっ続けでここまで忙しいとは思わなかった。やっと夕方に用事を終わらせて先週の金曜日(だったかな?)以来にミスタードーナッツへ。懐かしいコーヒーの香り。あ、ミスタードーナッツでコーヒーを飲むときクリープをいれてアルミかステンかのスプーンでかき混ぜてそのスプーンの匂いをかいで笑った人はサイテーです。

今日昼間に道を歩いているときにビルの壁に張り紙がしてあって、「ここは喫煙所です。吸殻は灰皿に捨ててきれいに使ってください」みたいなことが書いてあったんだけどこれっておかしいよね?「喫煙所ですがきれいに使ってください」とか「公共の場所なのできれいに使ってください」ならわかるんだけど。つまり二つの話題が連結してないんです。そういや高校生のころ古文の授業で助動詞の活用とか覚えたけどあれって現代文でもやって欲しかったなあ、なんて追憶のマーメイド。僕の言葉の文が長くなるのはできる限り言葉の意味を相手に伝達されたときに一意的に定まるように努力するからなんじゃないだろうかなんてことを考える。鈴木孝夫の「ことばと文化」にbreakの定義は「刃物以外の外力を急に加えて何かものを二つ以上の離れた部分にすること」だと書かれていました。つまりこう定義すれば英文によってbreakが「壊す・切断する・割る・折る・破る」などといろいろな訳が付けられる理由が明確になるわけです。僕が「日本人は気弱だ」という文を僕の考えを明確にして誤解のないようにして語るときその文は「日本に住む大多数の民族である日本民族は性格として気弱であることが上げられる。ただし気弱という概念が絶対的なものなのか相対的なものなのは別の議論がなされるべきであり、その善し悪しもわけなければならないだろう。そして日本人と言う枠組で考える必要性はただ比較文化論の中でのみ論じられその普遍性はそこからは見出されない。しかし私は日本に住み、自身もこの民族に含まれることから対象が日本に特定されることもまったく無意味ではないとの判断からこのことを述べてみた次第である」となる。それを端折って「日本人は気弱だ」という文が生まれる。その略され方は様々であり、同じ「日本人は気弱だ」を発言する人がいてもその略した文はまったく違うものであるかもしれない。いや、ほとんどの場合まったく違うと考えてもいいだろう。スガモンが「そういえば、言語が伝えている意味というのは全部の意味(表情・動作・しぐさなどを入れての意味)の10%にも満たないそうで、あらためて言語の無力さを実感。」と掲示板で言っていたけど、言葉は表面的に浮かんできた音素の羅列でしかなくそこからその意味を正しく汲み取るのは容易なことではない。それを正しく汲み取るのは50年連れ添った夫婦だってなかなかできることじゃあないだろう。それができるのがいいことなのかどうかは別にして。

「氷山の水面に表れている部分は全体積の約1/7の由である。6/7は水面下に沈んで見えないのだ」鈴木孝夫

んで早く書かないとな~~って思っていた話を。

・ある国は普通よりも少しだけ靴屋さんの数が多かったそうです。そこでその国の靴屋さんは競合相手が多いために靴の値段を下げるために大量生産を始めました。どの靴屋さんもそれを始めたために関連企業もどんどん増えつづけ最後にはその国は靴しか作ることができなくなって滅びてしまいました。

なんて子供だましの話をスガモンの日記(story-1:やさしいひと)を読んでいて思い出しました(スガモンの話が子供だましなわけではない。それに政治なんてすべて子供だましでしかない)。こういうのを無味乾燥人間と言います。関係ないが今日、ミスドにいるときに女のセールスが男を騙そうと頑張っていて、
「車って興味あるんですか?」
「そうだねぇ。スポーツカーとかかっこいいよね」
「会員の方にはフェラーリに乗ってる方もいっぱいいらっしゃいますよ~~?それに、女の人ってやっぱりそういう車が好きですしね~~」

「ここの会計が1000円ちょっとだったじゃないですか」
「ああ、それくらいだった?」
「年収が10倍になるってそれが100円と変わらなくなるって事ですよ!?」
「はぁ、そんなもんですか」
「そんな人を私も旦那にしたいものですわね~~」
なんてことをホザイテいらっしゃいました。騙される奴は騙されればいいが、頼むから女の品位を貶める発言はするな。お前は百万回全世界の女に土下座してそしてシネ。

バイクで帰ってくるときに消防車が横を通り過ぎていって、そのまま走っていくと道沿いのラブホテルに停まっていた。わき見してみたけど裸の男女とかはいなくって残念。そういうことがある可能性を考えるとどうしてもラブホテルを利用する気にはなれんな。事情聴取とかなんてされたら最悪。てか、もちろん利用する機会なし。うっせぇ(怒)

小説の続き(6)。ここ数日なにか忙しく、食事をとっていなかった。俺は普段はそうでもないが食べないときが続くと胃もそれにあわせて収縮して平気になる。空腹は感じない。だが如実にそれの影響が現れる部分がある。それは精神だ。栄養が心にも影響を与えるというのは多分本当だろう。俺は食べなくても平気だが、いつも精神が壊れてくる。手につかんだものを投げ、壁を蹴る。脳梁を迸る爆発的な刺激。不安と、、不安。死への恐怖の希薄。だから俺はコンタクトレンズを外してバイクに乗った。今なら、、、、死ねる。死んでもいい瞬間だ。バックミラーは抜き様にぶち当たり後ろからはクラクションが鳴り響く。俺を殺してくれ。生への渇望と諦念が争っている。家に着きバイクを降りたとき俺の顔は嗤っていた。俺はまだ生きている。そう、飛行機に乗るときにシートベルトをしない少年はまだここにいるまま。ジェットコースターは必ず半腰でベルトを下ろしきらない少年。生の実感と体感する死。肉体を破壊してお前を殺す。そして、俺は明日も目覚める。いつか目覚めないときを望みながら。、、、、吐瀉物は薄汚れた液だけだった。

04/22(b)

某サイトで一日に2回以上更新するときはアルファベットを表示するという技を見たので真似します。少しオリジナリティック(自分英語)にイロハとかにしてもいいんだけどポップでキュートな日記を目指す僕としてはやっぱりアルファベットだろうと。50音のことをイロハと言ってローマ字のことをアルファベットと言うように1~9の数字は「いちに」と言ってはどうでしょうか?(利点:なし)

昼からでかけてマクドナルドで食事をして少し用事を済ませたあと古本屋さんに寄ってそのあとミスタードーナッツに行きました。私の家の一番近くのマクドナルドはユニーの中にあっておばさんがいっぱいの中で食べるので少し気恥ずかしい。ついでに100円ショップでハサミと印鑑容れを購入。古本屋さんではいろいろ悩んだ末にフッサールの「現象学の理念」と吉田政幸の「分類学からの出発」と館淳一の「女医・秘密診察室」を買いました。エロ小説を買うだけならまだ恥ずかしくないんだけどいわゆる哲学書とエロ小説を買おうとすると店員さんに「こいつエロ小説を隠すためにこんな本を買ったんだな?」とか思われてそうでそれが恥ずかしい。そうじゃあないんです!最近日記がつまらないことばかりで方向性を少し直したいからエロ小説を買うんです!!と言いたかったですね(日記読者への言い訳)。だから隠そうとして哲学書を買っていると思われるよりはエロ小説がメインだと思われたほうがナンボかマシなのでエロ小説を一番上にして店員さんに出しました。でもわざと女の店員さん。そのあとミスドで手紙を書いたり本を読んだりしてたんだけどさすがに毎日のように行くミスドでエロ小説を読むのはどうかと思うので真面目に鈴木孝夫の「ことばと文化」を読んでました。

で、帰ってきてからワクワクしながら女医・秘密診察室を少し読んだんですけど、めちゃ普通の小説やん!エロ少な目。あるけど筋が通っていてつまらない。私が求めていたのはストーリィもくそもなくってとりあえずエロ!エロ!だったんだけど。これじゃあ日記のネタにできません(あくまで日記の)。しかたなくまたことばと文化の続きを。私はこの本を「文化」というところからしてあまり面白くない言葉に関する雑学的な本なのかな、と思っていましたけど意外と哲学的論理学的なことも多くかなり楽しんで読んでいます。「大きい・小さい」という形容詞が相対的形容詞で規準に照らした場合だけ使える、ということやその意味で「大きい」が使われるとき潜在的比較文になる、なんてことは私も少し考えたことがありなかなか面白いです。お進め。

私の部屋に素足で立ち入ると危険です。(バツ印はなぜか室内に貼られたバミテ)

ここまではっきりとわかるのは初めて公開するかな。

明日から水曜日までかなり忙しくて次の更新は多分木曜日になります。見捨てないでください(祈願)。

04/22(a)

ひさしぶりに普通の土曜日。いいね。昨日の雨が少し道端に残っていて少しだけ湿った空気が頬を撫でるようで。空がきれいだなあ。なんてことを書いても誰も読んでくれないでしょうけど。でもこのごろまったく書けないんだよね。下ネタが。やばい(笑) なんつーのかここ1ヶ月2ヶ月エロ話にほとんど興味がありません。まだ二十歳なのに(笑) だからしかたなく真面目な日記を書いてるからそういう人間だと思う方もいらっしゃるかもしれませんが違うんだけどなあ。なんでこんなこと言い訳してるんだろ(笑) 私はかなりお馬鹿な人間でその人間がちょっと真面目ぶってこの日記を書いていると言うことをくれぐれも忘れないように。言語がどうだこうだなんて話してるよりも女の子と一緒に遊んでるほうが100倍楽しいとちゃんと思う普通の人間です(笑) でも出会いがないからしかたなく。 昨日の夜(今日未明?)ネットでの活動の一つを中止したんだけどあまりに自然にそれをしたせいで朝起きたとき半分それを忘れていました。ご迷惑をおかけするかた申し訳ありません。

昨日の森博嗣の小説からの引用文だけど、傍線は、私が書きそうな言葉だなあと思った部分です(笑) 写実的な心象の明示、とかさ(笑) 漠然としたものをその曖昧な形のまま正確に言い表そうとする指向がそうさせるんだと思う。森先生もそうだなんて言っちゃったら失礼だけどさ(笑) 日記書いてるときにたまに思うことがあって、漢字で書くかひらがなで書くか迷うときがあるんだよね。昨日の日記で言うと最後の「ひとひら」も本当なら「一片」としたいところだけどそうすると「いっぺん」と読まれてしまうかもしれないからね。まあそれは意味が少し変わっちゃうからしかたないとも言えるけど、いわゆる難しい漢字を使うかどうか。「いわゆる」も「所謂」だしね。ちょっと考えるだけで「然る=しかる」「須らく=すべからく」「大凡=おおよそ」「陸奥=みちのく」とかさ。どっちでもいいんだけど、僕としてはできれば漢字を使いたいんだけど、そうするとやはり漢語読みされてしまう可能性も考えられる。あ、そうか。僕は漢字で書いて訓読みしてほしいんだね(笑) だってさ、なんかかっこいいじゃん(笑)

スガモンが僕の掲示板に書いてたことで思い出した。手紙やメイル、本だと失われる情報ってあるよね。僕らは普段話すとき微妙なイントネーションを使うよね。半疑問形とか。そういうのはテクストではなかなか表せない。普通に言ってテクストは感情を伝えるのに向いていない。言葉と言うものはもともとコミュニケーションツールだから実体に近づくほど伝達情報が増えていく。手紙よりも電話、電話よりも生身、というように。しかしそうとは一概に言えないのが言葉の面白いところで、まず「本、手紙」のグループと「電話、生身」のグループははっきりと種別化される。「本、手紙」のグループでは本は対象が不特定であり手紙は個に対するものだ、という違いがあり「電話、生身」のグループでは直接会っているかいないかの違いがあるがそれは本質的な違いではない。それよりも重要なこと、つまり文字のあるなしです。ここによって口述の優位性部分とテクストの優位性部位が明らかにされる。電話では話された言葉は消えていくのです。それに対してテクストは消えない。あとから何度でも参照できる。だからもともとの情報量は電話のほうが圧倒的に多いのですが、情報が欠損しないということでテクストは勝負を挑んでおり、良い勝負になっている。もちろん場合わけすればいいわけで実際誰もがそうしているわけなんだけど。あと、テクストは時間をかけられるので効果的な言葉を選択できるし(効果的って誤解しないでください。その場にあった言葉ということです(ついでに場ってのはメタファー))、論理の構築には持って来い。テクストってのは意味と構造を露わにするんです。なんか、まとまりがないけどここまで。その気があったら夜にでもまた更新します。

04/21

そもそも二人の間には、確固とした特別な感情が存在していたわけではない。おそらくは、《バブル》の中における極限状態に近い特殊な環境のためだったのだろう、僕らは、たった一度だけ愛し合った。そのときの印象は、既に僕の中では化石のように無味乾燥なものとなっている。触れると、ぼろぼろと崩れてしまうほど、風化していた。それが、精神安定剤の効果だったのか、それとも、一切合切をまとめて忘却しようとする精神の防衛反応の一環だったのか、わからない。(森博嗣:1999「そして二人だけになった」.傍線部引用者)

今日も、雨が降っていますね。帰りにミスタードーナッツに寄ろうかと思ったのですが、またこのまえみたいに濡れるのは数ヶ月に一回くらいにしたいから直帰しました(といっても帰りにCDレンタルショップでCDを返してきましたが)。ちょっと前に倉木麻衣のStay by my sideが出たころラジオの紹介でDJが詩を少し朗読していたことを思い出してみました。あのDJは誰だったかな。思うに、朗読は反則だね。リズムと音程に包まれた言葉が剥き出しになっている。歌われない詩は優しさを失ったようにさえ感じられる。この前古本屋さんで「ギャラリーフェイク」を立ち読みしていたときに中国のある地域では今でも象形文字が使われている、という話が載っていてね。帰ってからそのとき読んでいた金田一春彦の「日本語」を見ていたらそこにちょうどその現代の象形文字の話が載っていてシンクロニシティとまでは言わないけどなかなか面白い偶然だなあと思いました。その日に書けばもっと僕は楽しかったんだけど少し時間が空いてしまったからすげえ、という感覚が薄れつつあるけどね。でも今日何気なく開いたテクストに鈴木孝夫の「ことばと文化」が紹介されいてまたびっくり。今読んでるからね。言語学系の本を読んでいれば鈴木孝夫の名前をよく見るので不思議はないのだけどまったく関係ない分野の本だったから。池上嘉彦の「記号論への招待」を読んだときもそこに書かれた文章が私がかなり前に読んだテクストの原典だったから驚いたんだよね。世に本は何十万何百万とあるけど僕が選ぶ本はそのうちでもかなり偏ってるということなのかな。自分ではかなりバラエティに富んでいるつもりなのに。

んなことはどうでもいいんだけどさ。キリスト教に十戒(「じゅっかい」ではなく「じっかい」である)ってあるじゃんね。まあ偶像崇拝の禁止は偶像、つまりイドラであって象徴化の最たるものだから世界宗教のような普遍を目指そうと考える宗教ではなくそうとするのが自然なんだけど、同じように「汝神の名をみだりに唱えるべからず」というのも記号の働きで神が象徴となることを恐れた結果なんだよね。僕ら人間の言葉の原理として、象徴として固定されるとその位置は論理的に考えて相対的なもの、流動的なものだということが表れてしまう。それを防ぐにはその位置を最初から明らかにしないことであり、神は名を持たず奇蹟はなかなか起きないものになる。僕は基本的に宗教的な意味では無神論者だけど、もし神がいたとしてもその姿を簡単にみせることはできない。そのバランスが重要なんだよね。 少しだけ昨日の補足。音楽の場合は何らかの楽器なんかを使って自分の感情や風景を表せる人が思考の必要のない人間かもしれませんね。ですが、あくまで私が言いたいのは「そんなことは当たり前で、日常で言葉を使う99.99%の人間は言葉の使用に意識を使わない」ということです。それを使うのは論理言語学者だけ(笑) 言葉について考えているとたまに言葉が話せなくなるんですよ。言葉ってのは体系と世界の写像関係だと言うときがありますが、たまに思考がなんかよくわからないけど行き渡る日があって、そういうとき頭の中にその写像関係がふっと一瞬浮かぶことがあるんです。もちろん言葉自体の構造のメタ的視点だから言葉では言いきれないのですが、その言いきれないと言うことさえ含んで見えるときがある。そのとき、言葉がでなくなる。なにかここで言葉を発したら、言葉を思ったら消えてしまう!という瞬間なんです。でも、そうやって考えるのでやはり消えてしまう。ま、そこまでじゃなくても電話で話してるときなんかよく何一つ言葉が出てこなくなる瞬間ってのはあるわけですが。 ちょっと別の話。挨拶ってのは基本的に反射反応で考えて答えてるわけじゃないじゃん?相手によって「おはよう」か「おはようございます」かとか選択するにしても頭の中で「あ、この人は目上だから~~」なんてことは考えてない。無意識に選択して状況にあった言葉を選んでいくことができる。そしてこれは誰でもはできないかもしれないけど本を読んでるときやぼーっとしてるときに話しかけられたりするとなんとなくで答えていくよね。それもけっこうきちんとした返事だったり。これも無意識な言語活動なわけです。ここで言いたいのは、言語の論理とかそういうことではなく、「それをどんどん強化していけば理論的(論理的)にはまったく意識せずにすべての言語活動をこなすことができるのでは?」ということです。つまりある一部の哲学者の言う「ゾンビ」です。いまのところ細部はチェックしてないけど僕はこのことからもゾンビはあり得ると思うし、チューリングマシンは意識を持たないと思うんだよねえ。どないでっしゃろ?

小説の続き(5)。ようやく浅い眠りにつき目を覚ますと携帯電話には明菜からかかってきた通知が残っていた。夜にかけなおそうと思い俺はまた輪郭の見えない日常へと身体を滑り込ませていたがその漠然とした時間はいつのまにか明菜のことを忘れさせようとしていた。だから、というわけではないが携帯電話の電話帳で明菜の名を見たときちょっとした悩みを持った。かけても、いいだろうか。俺自身もそうだからわかることだが、明菜のようなタイプの人間は繋がっても相手が電話にでないと不安を抱く。特に明菜はそれで数日悩むような奴だし今の精神状態から考えてかなり気にかけていると思って間違いない。かけてやれば、喜んでくれるだろう。ただ、幸いなことに俺はここ数日の間に何回か人に会って楽しさを分けてもらっていてなかなかマシな精神状態だった。だから俺は明菜に電話をかけることにした。何気ない会話にその弱さを隠しきれない可哀相な明菜。それは明菜を侮辱した言葉。しかし、お前には言わないことだが、俺がお前に弱さを見せずに済んでいるのはひとえにお前が俺よりも弱いからだ。その切ない感情を少しだけいつもより多く感じ取ることができ、俺は5月中に明菜に会いにいくと約束した。多分、前よりも少しだけ正直でそして本当の優しさを1%くらい混入して会えるはず。しかし、、、、どうしても一つお願いがある。この言葉に傷つかないでくれよ。この前みたいな薔薇の刺繍入りの網タイツを着てくるのはやめてくれ。それとロリータポップも。あと俺にドラッグクイーンをやらせようとするな。

こうやって上滑りする言葉達っていいなあ。多分、ここに僕の僕にとっての意味は一つもない。ひとひらの言の葉。それが、見えるまで。