Tuesday, April 11, 2000

ログ23('00 04/10~04/20)

04/20

老少不定の世の中は、石火の光にことならず。たとひ人長命といへども、七十八十をば過ぎず。そのうちに心のさかむなる事は、わずかに廿余年なり。夢まぼろしの世の中に、みにくき者をかた時も見て何かせん。思はしき者を見むとすれば、我が命をそむくに似たり。(平曲 arranged by okino-mahito)

とっても日常的な毎日を送っています。とっても普通で、ああ、一日ってこういう風なんだって遠い昔を思い出すような感慨で空を見上げちゃうくらい。お盆の底を見るときには逆さにしないように持ち上げて見なくちゃねって思うくらい。今日の帰りボールペンが欲しくって家の近くの本屋さんに寄りました。そこはCDレンタルも一緒になってる店なのでたまには借りようと思って倉木麻衣と小柳ゆきを借りてきてしまった(笑) ボールペンを選んでるときに、試し書きをしようと思ったのね。そうしたら先に書いた人が「白は決える」と書いていたのですがあれは「冴える」かな。しかし可能性的には「映える」もありうるかな。でも私の中ではあり得ませんがその方の個人ルールで「決える」が正しい場合もあるかもしれない。これ以上は情報が少なくて断定できませんが。

おとといだったかな、オフがありまして。小さなオフだったから数人でちょっと飲んだくらいなんだけど。最初に食事時にビールを一杯飲んで次の店でサワーを一杯の計二杯でダウン。トイレに立て篭もってました。弱いです。でも気力でなんとか吐かずにすんだ。途中またまた心配かけて申し訳ないです。あれくらいならだいじょうぶだと自分を見誤った私が悪かったです。これからはビール一杯までにしよう。某O嬢と地下鉄に乗ってるときにDDRの話題になりまして。名古屋駅のゲーセンにあるDDRは窓際にあって、女の方がやると困ったことになるそうです。彼女、それを表して曰く「パンツの中が見えちゃうんだよね~~」ヤバイっす(爆) しかしそれを聞いてふんふんと頷いてる某K嬢もかなりのもの。オフ自体は、ちょっとした感覚が、なかなかよかったりして。

たまたま私のこの日記を読んでる人に会う機会がありまして、「半分以上わからないときもある」と言われました。はっきりとは聞きませんでしたが、例えば、「言語の可能性はそれを使用する発話者の創造性に依存するが、発話者もまた言語の言語としての構造から創造性を汲み取っており、その使用と規定が絡み合う現場こそが可能性を生み出しているので単純に無限であると言うことはできないと私は思うのである」(<今適当に書いてみた文)なんてことがわからないと言われるような文章でしょうか。なるほど当然です。だって、私もわかってないんだもん(笑) 言葉は言葉としての規定(ルールと言ってもラングと言ってもコードと言ってもかまわないのですが、、、、)に従って意味を作りますから、逆に言えばある言葉からその言葉の置かれた状況とその言葉の定義をミクスチュアしていけば勝手に文章ができあがっていくのです。これが俗に言う「言葉が言葉を生む」という現象(?)です。上の文章を自分で読解するなら、まず「言葉の可能性」という話題が置かれてから次に可能性から思い浮かぶ「創造性」を思い出してそれに「それを使用する者」を付けたして、「あ、者じゃよくわからないから「発話者」にしよう」と考えればまず「言葉の可能性」と「それを使用する発話者」の二節ができる。そしてその接続関係を私は「依存」だと考えた。つまり「言語の可能性はそれを使用する発話者の創造性に依存するが」という文章の中で私が自分の考えを述べてるのは「依存」という言葉だけなんです。その後ろも同じように言葉を生んでいっており、太字の中で私が自分で創造した言葉だと思うのは「依存」と「絡み合う」の二つだけだな、と思うわけです。普段の生活でもこんなこと当たり前なんです。というか言葉というものは結局多くの使用がただ反射によってのみでてきていない限りそうそう創造性を主張することはできないのです。相手が「おはよう」と言ったら君も「おはよう」と反射的に応えるように、私は「言葉の可能性とは?」と聞かれたらこう答えるのです。思考なんて必要ない。音楽が好きな人ならその音楽について考えなくてもすらすら言えるでしょう?その音楽について統一的な論理が体感的に備わるほど考えたことがあるならば。こうやって回りくどく言うのが悪い癖なんですけど(笑)、どうもやめられないんです。

もう少しだけテクニカルに言えば、上記の文章で「依存」と「絡み合う」だけが私の創造した言葉だと言ったのは、ちょっと示唆的な意味を含んでいるのかもしれない。それは依存も絡み合いもメタファーであると言うことです。つまり太字の文章は、要約すれば「言葉は構造と使用の中間で生み出されるものである」となるにも関らずその文章自体の作りとして「言葉は構造だ」と断定しているようにも見える。こうやって自然言語はどれだけ多義性を排除しようと努力しても言語自体が構造的に持つ創造性(創起性)によって破綻するのです。ああ、せっかく書いた日記なのにまた読者を減らすようなことを書いてしまった、、、、(笑)

ということでお口直しにここを読んでみよう!(勝手に推奨)

04/17

パラケルススはパラノイアのパラダイスとパラレルなパラドクスがパラサイト的パラフレーズによるパラマウントなパラメータをパラダイムのパララックスするとする。

ぐふう。今日は(挨拶のこんにちは、漢語のこんにちは、きょうは、の3つの意味があるね。その中の「きょうは」)昼過ぎからの用事だから11時起き。ゆったりとした良い日です。曇り空が爽快。

中学校のとき理科の先生が「私は板書したことだけじゃなく黒板のどこに書いたかも覚えてる」と言うので1学期間ただノートに書き写すのではなく黒板の形を書いてそこに写していったことがあります。それでテスト問題の質問のときに「これはどこに書きましたか?」と聞いたらちゃんと覚えておられました。でもそういうことってありますね。本を読んでいてあとからもう一回その文章を読もうと思ったとき、探すのに本の見開き全体を見るのではなく右ページの真ん中くらい、とか思い出してぱらぱらめくって行きますからね。そうするとだいたいあってる。それとは少し話がずれるけど電車に乗ってるときにこんなことないかなあ。頭の中にふと文字列が浮かんで、ちょっと回りを見まわすとその文字列の含まれた広告が吊られていたり。また、広告を見る気もなくぼーっとしててもたまたま自分の興味を持っている分野の言葉が書かれていたりすると目に付く。この辺、無意識な記憶と認識でしょうか。

「山と山は出会わない。人と人は出会いゆく。山と山は別れない。人と人は別れゆく。」

これを聞いてあなたはなにを考えますか?僕は遊園地で人とはぐれたときの対処法かと思ったのですが。二人で来た遊園地ではぐれてしまって、しかも集合場所を決めていない。携帯電話は二人とも持ってない。さて各人はどうやって動くのが一番合理的か。1.自分は動かない 2.自分が探す と選択肢はある。1だと相手も動いていなかった場合絶対に出会えません。だから2です。ところが2でも可能 性的にはすれ違いばかりで出会えないことも考えられる。だから前もってはぐれたときはどちらかが動いてどちらかがその場で待つことにしておいて動くほうが絨毯爆撃的に探して行くのが合理的です。その話をしてないなら両方が探しまわるしかない。そんなこと決めるくらいなら集合場所決めておけばいいのですが。てか、場内アナウンス頼め。

こんな感じで書くのがおしゃれ系?(笑)

04/16

三日振りの更新で、こんなペースで書いてたらとってもまともなウェッブページになっちゃいますね(どんな意味でかしらないけれど)。まあ、日記でも。とりあえず忙しい。これに尽きる。風邪治す暇ないし。時間を売って俺は生きてるんだなあと実感中。切り売りできる時間は近代西洋合理社会の産物です。もともと「とき」は刻むことができない単位、いや、単位じゃない漠然とした空間なのです。単位として見ることを始めた時から社会は歯車を組み込んで回りはじめたといっても過言ではない。休憩時間は時間であってときではない。三昧時はときであって時間じゃないのです。それのどっちかが悪いことだというわけじゃないのですが。

知り合いに突然無料プロバイダにしないかと誘われました。僕があんまりいいアクセスポイントがなさそうだよねと言うと「そんなことないって」なんて言ってたのですが、あまりに熱心なのでそいつに紹介料でいくらかでもはいるのかと聞いたら一人入らせると70ドルらしい。ちょっと高いな(つまりもらいすぎ)。そこでもう少し詳しく聞いてみると、そいつが始めた会社で、無料プロバイダ自体はアメリカの会社かなんかだけどそいつの会社が人を集めるらしい。だけど無料プロバイダなのに入会に10000円かかって年会費30000円だそうです。でも一人紹介すると70ドルだから6人紹介すれば元が取れて無料になる。もっと紹介すればもうけになる、ということらしいです。うげぇ(笑) 面白そうだけどあんまり詳しく聞くと期待させちゃうので、ウェッブで見ようと思ってHPのURL教えてくれと言ったら「あ、まだパソコン持ってないから」だそうです。どうやってプロバイダの仕事するねん(笑) でも僕の予測では彼自身が孫でもうけはでないと見た。

小説の続き(4)。それでも俺は電話を握り締めながら悩む。俺も今ひどく落ち込んでいる。誰かの声で安心したいという気持ちがないではない。だが、明菜、お前じゃ俺を安心させることはできない。なぜなら、お前はあまりにも俺を知らなさ過ぎる。俺が普段どんなことをしているかさえ知らないだろう?俺は情報を選択的に開示するがそれを渡した者でしか俺を慰めることはできない。尊大な言い方だが。俺は、お前を選んじゃあいない。 pi! 、、、、結局かけたのは俊祐にだった。かなり意図的な選択だったと思う。勝手な想像だが、俺の傷と明菜の傷は違うものだが、俊祐の傷は俺の傷と似通ったところがあるからだ。男同士だ、傷を舐め合うような真似はしずに隠されたメッセージを受け渡し確認する。明菜の傷は俺がつけた傷だから見ていて苦しくなるが、俊祐の傷は俺と似た傷で俺を苦しくさせる。しかし結局のところ俺は俊祐にも言葉をかけることはできなかった。奴にかけることのできる言葉は、すべて俺に返ってくる。そしてそれはあまりにも論理的で、あまりにも俺の感情に当てはまらない。俺は、傷つくことを恐れない。いや、そうじゃあない。傷つくのは怖い。だけど、だからと言ってやめることはできない。目を閉じた暗闇の中に鏡が浮かぶ。そこに映った俺は心臓にハサミを突き立てている。これは虚像だろうか?

04/13(2)

帰ってきました。ただいま。予定通り帰りにミスタードーナッツに寄って、新作のストロベリーリングを堪能。それとゴールデンチョコ。でも風邪で気分が優れずあんまり長居する気もしなかったのでコーヒーはお代わりをしずに。毎回「しず」か「せず」で悩むんだけどね。気分で変えてます。帰りにジーンズショップに立ち寄りジーパンを購入。お目当てはリーバイスの702だったんだけど、いつのまにか16000円になっていてびっくり。数年前までは12800円だったんです。12800円もちょっと高いなあと思っていたので702は諦めて503zを買いました。503xxじゃなくってz。去年で生産中止になって在庫品だけらしい。いい色なのにね。501でもよかったんだけど友達に「なんでキムタク?」と言われるのがいやだったから。てか、501のほうが高いんだけど。ジェームズ・ディーンが普段履いていたのはリーバイスだけど映画は実はLeeだった、という噂は本当だろうか?(興味なし) 母にジーンズを買ったという話をして、僕がジーンズはあんまり洗うもんじゃないと言うと母は(ははは)「でもみんなすたすたのをかっこよく履くんだよ」と言いました。すたすたってなんだと聞くと「洗ってそのまましわが入ってる様」のことだそうです。家で食事時にテレビをつけていて、野球中継でどっかのチームの選手のタラスコという名前が流れました。家族がそれぞれ一言。母親:「タバスコみたいだね」 父親:「タラバガニみたいだ」 私:「サラスパかと思った」 こんな和気藹々な家族です。

言葉に興味を持っているとどうも情に薄いんじゃないかと言われそうな気がします。新聞に「大西弁護士は、少年が胸にたばこの火を数十ヵ所押し付けられていた暴行の実態や母親が当時、精神的に不安定な状態で正常な判断ができなかった事実などを明らかにした」と書いてあって、真っ先に浮かんだ感想は「句点が変なところにあって、そのせいで「実態と母親」が主語になっていてそれが精神的に不安定みたいに読めるな」ということです。人間としてなにか欠落してます。ウェッブページで読んだ話だけどかの金田一春彦は言語学を志したそうですが父親であり言語学者でもある金田一京助に「言語学だけはだめだ。やるなら国語にしろ」と言われて国語学者になったそうです。国語も面白いっちゃあ面白いんだけどね。今、「日本語」の下巻を読んでるんだけど上巻の末に書いてあって笑っちゃったのが、日本人は「~~だけど」とか「~~だが」という言わば言い訳みたいな言葉を使うことが多いそうです。僕はその典型。自分でわかってることなんですが(=自分でわかってることなんだけど)、私は「けど」を多用する。なんか良い言いまわしが他にないかなと考えるんだけど、つい使っちゃいます。自分でやたら使うなと思ってるくらいですから他の人は私の文章を読んで、けどけどうるさいと思うことでしょう。そのうち日本語がうまくなったらまた考えます。それまでは許してください。(日本人の甘えの構造)

小説の続き(3)。そして俺は嘘に気が付く。俺は傷ついちゃいないし、悲しんでなどいなかった。明菜との関係を一人で楽しみ、それを戯曲的に捉えて遊んでいるだけなんだ。自作自演のパントマイム。それこそが俺の醜さだ。明菜には悪いが、俺はお前を助けてやることはできない。俺が「選んでやれなかった」ではなく「選んでやらなかった」と書いたように。まったくの嘘じゃない。俺はお前のことが好きだし、心配してる。ただ、お前を心底気にかけてやることは今はできない。これから、のことはわからない。ただ、卑怯な言いぐさだが、俺とお前は離れている。こんな言い方はお前を傷つけるだけだろうがお前に会うために何日もは空けられない。これは、論理的な言葉の構造から導かれる正確な文章を書いただけで他意はないことを了承してほしい。「何日も空けるほど俺はお前に惹かれてはいない」。自殺、それは完璧でなくてはならない。

この日記おもしろくない?うーん、そうだねえ。私には笑わすような文章を書く能力はないし、ここは私が個人的に楽しむことだけを目的にしてる日記だからね。もし、笑えるようなおもしろい日記をお探しならこちらはいかがでしょう?この人の日記面白いから毎日読んでます。私が毎日読んでるただ一つの日記。なんて言っても私がお薦めしてもあまり説得力はないんですが信じてください。面白いです。

新しいピアスを買いました。シルバーのリング形。私はあんまりアクセサリに凝らない性質(たち)だからピアスホールを両耳で4つ開けているといってもここ1年ほとんど同じものをつけてます。1年前に一個新しいものにしただけ。だから珍しいわけです。しかも今日はジーンズを買うという。服や装飾に凝るのは私にとってはかなり珍しい出来事です。あ、そういえばちょっと前に「世間体を気にするならこんな服着てない」と書きましたが、これは別に汚らしい服を着てるってことじゃないですよ?(笑) 今日、街中を歩いてるときにタンポポを見ました。もうそんな季節なんですね。ちょっと茎を折って種子を飛ばしたりしました。ほどほどの風で飛んでいく様はなかなか情緒的であります(笑) ちょっと近くのコンクリ塊に腰掛けて奏でてみました。あ、タンポポで草笛ってわかりますよね?茎の両端を切って細いほうから吹くだけです。そうするとぼ~って鳴る。吹きながら思い出したのですが、けっこう前にここの日記に「小学一年生のとき、どんな物も原子からできてるわけで、その意味では汚いものはないと友達に話した」と書いた記憶があります(探す気なし)。この話をしたのはちょうどタンポポで草笛を作ってるときだったんですよ。私が道端のタンポポで草笛をしてると友達に汚いと言われて先のことを言ったわけです。私のジェネレーション(うぷぷ)はけっこう川遊びや田んぼで泥まみれになったことのある人が多いと思うのですが、思えばその頃から今のようにそういうことは汚いからしないようにしようと思う子供やそれを教える親がいたということですね。私達より年齢が下の人たちは私達が遊んだところで遊んでいるところを(わかりにくい文章だな)あまり見ませんでしたから、私達がそういった遊びをする最後の世代だったと言うことでしょうか。そんなことを考えながらもタンポポは微振動で高低音を出す。それが僕のノスタルジィ。

新聞に書かれていたことですが、私の世代は文明社会に埋もれていても心の中に帰るべき郷愁を持っているそうです。そして、私より低い年齢の方達は持ってない人が多い。彼等が文明に疲れたときどこに帰れば良いのか、ということが筆者の憂慮することらしいです。私はこういった考え方が大嫌いなのですが、今日のタンポポを思い出すとあんまり否定ばかりじゃな、とも思いました。タンポポの茎のあの苦味、あなたは思い出すことができますか?

04/13(1)

さっきまた飛行機の音が断続的に聞こえてきた。でも、今日は無風。そこで考えてみると音の伝達に影響を及ぼす原因は風向きと風速だけではなく気温があった。細かいことを言えば気圧も。こういうことをすっかり忘れてるところらへん、私が理系じゃない証拠です。

月曜の夜から風邪っぽくて、火曜の昼間には完全に風邪を引いてしまい夜に熱がでてきてダウンしたかったけどできずに非常に疲れきっています。人生にも。今日は昼から少し出かけるだけなのでまだいいのですがあしたから金土日の三日間はまたかなり忙しいです。家には寝るときしかいないと思う。ネットには多分いないね。今は小康状態なんだけど風邪がぶり返さないように注意しないと。

これからでかけて、夕方には久しぶりにミスタードーナッツに行って、夜7時にはもう帰ってくる予定。今日も早く寝たい。(非常に疲れてることが伺える日記だな)

04/10(2)

ということでまた僕をアイデンティファイする道具である髪のことだけど、よく「何年伸ばしてるん?」と聞かれてさ、僕はもうすぐ5年って答えてたんだけどよく考えるともう5年と数ヶ月だ。人生の25%近く。それに、チャットでは腰まであるよ~なんて言うけど鏡で見てみたらお尻より下まであった。知らなかったよ(笑) よくさぁ、髪を染めてる奴とかが「なんで染めてるの?」って聞かれてかっこいいからとか言うじゃん。僕も基本的にそうなんだけどさ、それよりもやっぱ「個性的」になろうとしてる、というのが強いかもね。笑っちゃうよな理由なんだけど。だってさ、僕の髪が短くて黒かったらほんとに平凡なやつになっちまってそれこそ誰の目にもつかないマイナキャラになっちゃうぜ?僕がさ、「僕って目立つからね~」と言えばみんな「そりゃその髪なら~~」と言うし「僕って目立たないから~」と言えば「なんでやねん(びしぃっ)」ってつっこんでくれる。だけどさ、僕にこの髪がなかったらどこにどう絡んでいいかわからないでしょ?てか絡もうと思わないだろうし。てか絡むのは俺だし。だから切れないんだよなあ。切っちゃったらなにで僕を出したらいいかわからない。他に僕らしいものがない。別に個性的である必要もないんだけどどうせなら個性的でいたいし。みんながせっかくこの髪で僕を僕として見てくれてるんだからそれを失いたくないし。でもいつまでもってわけにもいかないしなあ。そろそろ次のこれは誰にも負けないってものを考えないと。言語学?そりゃあ無理っすわ(笑)

私の家の近くには空港があります。小牧空港。名古屋空港とも言う。それで、たまに風向きによって飛行機の離陸時の音が聞こえてくるのですが、それが聞こえてる最中にいきなり音が消えて、それからすぐに聞こえ始める、ということがあります。今までずっとそれを「飛行機と私の家の間に大きな建物があるんだろう」と思ってました。でも、考えてみれば音の回折は大きいから光が見えなくなるみたいにはならないことに気が付く(私の家から空港までは数kmある)。ということは、もしかして音が干渉しているのか?たしかに音が聞こえなくなるときは間に大きなビルがある。たぶんその両際から音が回りこんできて私の家の付近で弱干渉を起こせば聞こえなくなり強干渉なら大きく聞こえるんだろう。風向きや風速に影響されるはずだけど。ざんねんながら私にはそれを統計を取って調べようと思うほど興味はない。

そういやさっき日記猿人に登録してからはじめて投票数ってのを見てみた。ほとんどないじゃん(笑) 日記猿人って規模が大きすぎて宣伝効果が薄いんだよね。使う人数は多いわけだからトップのほうにある日記HPにはどんどん人が行くんだろうけど。まだ日記猿人から飛んで人の日記を読んだことがないがやっぱそういう日記はおもしろいんだろうな。私は私なりにがんばって書いてるから読んでください(笑) 話がばらばらで統一されてないからちゃんと読む人は少ないだろうな。どんなマイナネタでも同じ話題を続ければ固定してくるんだろうけど。しかしそんな性格してない。[Read Me!]では一日に見にきた人の数がわかるからそこで確認してみたところ一日20~30人みたい。意外に多い。ほとんどが読んでないだろうが。だって、私だったら読まないもん(笑) 我ながら面白い、ということは書いてることもあるけどそういうのは正確には「私だから面白い」なんだな。他の人には面白くないだろう。いや、できる限りの努力はしてます、はい(笑) 私はかなり考えが及ばない人間なんだけど、それに反していらんことを考える人間なんだよね。だからあるなにかを伝えようとするときに私の個人的な言葉の用法で表現するときがあって、たまには伝わってることもあるんだと思う。でもさ、ときどき自分じゃ意識してないのにそういう言葉を使ってるときがあると、受信者は私がいつもそういう言葉を吐いていることから推測して私の言葉を改竄してしまうこともあると思う。比喩的な言い方をするなら、いつも深い意味を込めてメタファーを使うために単純に「私は沈黙する」ということを伝えることができなくなってしまうように。愛しているから愛していると言うのか、なにも態度を表明しないことが愛しているということなのかさえわからない。Aを言うためにBを使っていたならその関係は固定化し、BをBと言うことはできなくなってしまう。メタファーを壊せ。気が付いただろうか?私は、さっき気が付いた。私は実は本当のことを言うことが多いことに。

04/10(1)

僕は目指すという言葉が嫌いだ。だって、~~を目指しってめざしかと思っちゃうもん。

知り合いとキャバクラ嬢の落とし方なんかを話してた。「社長の振り」をするのと「親のやってる会社で不真面目な社員だけど成績はトップ」とどちらがいいか。社長の振りってやっぱする奴多いしよっぽど金を思いっきり使えないと信じてくれないし難しいんじゃないかなあ。でも成績トップってのもうまく見えて付き合い始めることができたとしてもすぐにばれるだろうし。その知り合い曰く「そうだなあ。じゃあやっぱり正直に真面目に普通の会社員してるって言ったほうがゲットするのは難しくても落としたあと楽かなあ」。いや、真面目な会社員ってのも思いっきり嘘だし。でも実際には僕は風俗に行ったことがない。いや、マジで。本当に。口幅ったいけどこれは信じてくれるだろう?(半疑問形) でも僕ってどうもそのキャラで固定されてる気がするな。ちょい前に僕も合わせて10人いたときにそのうちの一人が他の全員に「風俗に行ったことあるか」と聞くとき、わざわざ「沖野を除いてこんなかに風俗行ったことないやつっている?」なんて言ってるし。ぼかぁどぉもあまりそういうことに縁のないキャラだと思われてるらしい。直さなきゃなあ。つってもキャバクラに行くわけじゃないけど。バー系の軽いお水ならまだいいけど飲めないし。ソープとかヘルス(いまだにこの違いがわからん)ってのもなんかなあ。というかSEXなんてそこまでしてしたいものか?という疑問が。僕には多分一生縁のないものだな(つっこみ不可)。

そういやきのう「心に花を。心に棘を。」というコピーを見かけたけどあんまりいいコピーじゃないな。77だからリズムは良いけど二回「心」を使うってのはどうもなあ。リフレイン効果とかカノンっぽくしたかったのかはわからないけどそれなら「~に~を」の形を使ってるだけで十分だと思うけどな。感性の違いでしょうか?私だったら「心に花を。瞳に棘を。」とか「ココロに花を。カラダに棘を。」にする。こっちの方が良くない?そいつぁご挨拶ですな。つーかそんなコピー使ってるからインディーズ落ちするんだ。あさってはSADSin岐阜モダンカフェ。(昨日のマグロ、3本)

小説の続き。それでもふとんの中でもがいてると電話がかかってきた。明菜からだった。この前退院してからたまにかかってくる。だいたい朝の4時や5時だ。俺もだいたい起きている。明菜と話していると心が痛む。俺は明菜に嘘をついている。奴が望んでいるものを俺はあげることができない。空回りする言葉だけを明菜にかける。二人とも、早くまた会いたいねって言いあってるくせにもう1年半以上会ってない。俺は明菜に会うのが怖いんだ。俺は明菜が優しさを求めているのを感じてとりあえず言葉だけを与えてきた。しかし会ってしまえば、言葉だけじゃ足りなくなる。俺は、明菜にそれ以上のものを与えることができない。明菜がそれを知ったらまた病院に戻ってしまうだろう。いや、もう次は病院じゃすまないかもしれない。やっぱり、会うことはできない。俺達は似たもの同士だが、俺より明菜のほうがちょっとだけ弱い。彼に会って彼のその傷を見るのが怖い。奴のことだ、傷を見せながら笑うんだろう。その顔を見たくない。その傷は俺がつけたものでもあるから。俺の心の醜さがつけた傷。俺が明菜を守ってあげれば良かったんだ。だけど、俺にはそれができないんだよ、、、、。明菜、どうか死なないでおくれ。自分勝手だけど、お前が死んだら俺は自分の醜さを一生呪わなくてはならない。お前を選んでやらなかった自分を。また、電話をかけてきてくれ。俺からお前に電話をかけることはできない。こんな俺を知ってくれ。そして自分で歩いてくれ。俺はお前の松葉杖にはなれない。お前に本当の優しさを与えることはできない。そして、俺を殺せ。完璧な自殺それが問題だ。(本日の一言、自らを省みず)

今日の名古屋は大雨。家を出るときは風が強いだけだったけど用事を済ませて出てきたら降ってた。それでもかまわず紀伊國屋書店に行ってたらその間に本降りになっちゃった。濡れながら自宅のある北区に帰宅。紀伊國屋で買った本は金田一春彦の「日本語」の下巻と立川健二・山田広昭の「現代言語論」とちょっとした新書を二冊ほど。ソール・A・クリプキの「名付けと必然性」はもう少し先にすることにしました。あしたあさってとちょいと用事があって、木曜は休み。でも金土日が連続で用事で、ほとんど家にいないから今週は更新がほとんどない。帰りにミスタードーナッツによるかマクドナルドにするか思案の末マクドナルドにしました。こんな日々も悪くないなと思う花散らしの雨。また夜に更新できれば。


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