Wednesday, April 5, 2000

ログ22('00 04/04~04/07)

04/07

、、、,、、、、、。

家に帰ったら親がTVを見ていて、ちょうど中日のブロスがノーヒットノーランを達成したところでした。名古屋に住んでるから中日ファンという節操のないファンですがそれでもちょっと嬉しい。それに相手がベイスターズだというところがいいね。今シーズン現在7割というローズを擁したマシンガン打線を相手に天晴れ。ただ、中日の得点は8点なんだけど安打数が20で、ということは中日の悪いくせである連結のなさが露呈した試合でもあった。なんて解説者モドキのことを言うと野球好きだということがばれちゃうので言わないことにしよう。

ということでチャットの友人である飛鳥さんとミスタードーナッツで会ってきました。私の用事で夕方にしてもらったため学校から一度帰ってからきたそうで。どうも申し訳ない。里魅も呼び出そうと計画してたんだけど所用で無理ってことで二人。ちょいざんねんではあった。話はチャットや学校生活について、将来、なんて真面目なこと(こういうと真面目そうな内容だな)。それから私のタイピング練習法として「クロス」や「「リバース」、「アコーディオン」を教えました。クロスは両手を交差させて打つタイピング。リバースはキーボードを前後入れ替えて打つタイピングで、アコーディオンは片手でキーボードを抱えて打つ方法です。これでブラインドタッチができるとかなり自慢できます。ただし、実用性皆無。あと、話してるときに思いついた新バージョンとして机の裏にキーボードを貼りつけて打つ「アップサイドダウン」というのはどうでしょう?私はする気がないので誰か試してください。ラッキーカードを二枚もらったのでじゃんけんして勝った飛鳥が選んでもう一枚を私がもらう。削ったところ私は見事に5点をゲット。ひさしぶり。手元に5点あったので早速時計を引き換えました。ホワイトのおしゃれな時計です。今モニタの上に乗ってる。かっこいい。店を出てから星ヶ丘から一社まで一駅間散歩がてら歩いて別れました。楽しい時間をありがとう。次は絶対里魅参加(強制)。

ちょっとだけまたきのうの日記に注釈つけさせてくれ。いつも書きながら考えてるからあとで書き足りんかったと気が付くんだよね。「言語の自浄力」ってのはこのままだと言葉が自分自身で自動的に働くように思えるけどもちろんそうじゃなくってより、できるだけ、正確に言い表そうとするなら「人間が言葉を使うとき意味を伝えにくい言葉は自然と(無意識的に)使われなくなり、なくなるか、他のものに置き換えられる、その力」ということ。言葉を使っていくうちに言葉が洗練されていく過程、とも言える。もちろん少しも完璧じゃないから意味がわかりにくくても普及してしまうときもあるんだけど。逆に「ら抜き言葉」なんかは「可能」が的確に表せるのでこれからもずっと見れるでしょう。

突然小説風。

電気を消し、部屋を暗くする。だが、どうせ眠れやしない。暗闇となった空間はあいつを呼び起こす。ドアの下からずるずると延びてくる、、、、暗闇の中に闇が膨れ上がる。俺はその闇に押しつぶされてもがく。苦しい。呼吸ができない。意識は明瞭なのにどこか思考の輪郭が薄れてる。暑い、、、、。俺は、この部屋にいるはずなのに、体だけどこかに行ってしまったような。必死に眠ろうとするが、あいつは俺の肩を掴み揺り起こしてくる。眠らせてくれ。起きていると俺の意識は暴走してしまうんだ。今日もやつに勝つことを諦めて俺はベッドに腰掛けて煙草を吸った。だめだ、、、、このどろどろは、消せない。俺は、俺じゃない。俺は俺じゃなくなる。俺は、SEXが嫌いだ。服を着ていなくては、俺が見透かされる。仮面を被れ。服で體を覆い尽せ。重ねた衣装は意志を持ち動きだす。空虚な身体が実体となり、俺は俺でなくなる。完璧な自殺それが問題だ(パクリ@笠井潔)。

ということで今日は5時過ぎに寝て7時前に起床したので非常に眠い。おやすみなさい。あしたあさってと更新できない予定表。

04/06(3)

こんばんは。今日も恙無く一日を過ごし。そんな日常に埋もれながら考えたことや想ったことをなんとはなしに。ラジオで聞いた話だけどディズニーランドの就業規則が改正されて髭を生やしても良くなったらしい。でも、「休日は良い」と但し書きがあるそうで。つまり、今までは休日でも髭を伸ばしちゃだめだったってこと?(序文)

今日もやっぱりミスタードーナッツに行った。明日も行くのにね。ふふ。で、「日本語」の続きを読む。今日読んだ範囲でいくつか面白い話をご紹介。全言語的に「i」は明るさを表し「o」は暗さを表す傾向があるんだって。いろいろな理由は考えられるけど、私が思ったのは「i」は高い音じゃん?で、「o」は低い音。その高低が明るさと暗さに結びつくのかな、なんて思った。「い~~」と「お~~」ってのを口に出してみるとわかりやすい。低く「i」は言いにくい。それと「i」は「小さい方」を表す単語に使われやすいそうだ。日本語の「小さい」「大きい」なんて典型的だけど。これも「i」が小さく聞こえやすい発音だからだろうか?んでもってちょいと反論的なことを。天下の金田一先生に向かってなんだけどさ。金田一がその本の中でフランス語には「浅い」を表す言葉がないというんだね。それじゃあどうしてるかと言うと「深くない」で言い表してる。そしてその直前に「日本語は語彙が多く日本の文学者は幸せである」と言ってる。まあ穿ってみれば多少フランス語より日本語のほうが優れているというニュアンスが読み取れないでもない文脈(なんて日本語的な文だ)。で、そのあとに「「英語のnothingやnobodyにあたる単語はないが、これはまあ「何もない」「誰もいない」と言ってすませればいい」と書いてる(金田一春彦著:日本語(上)p.139岩波新書)。でもさ、それを言っていいんだったらフランスの言語学者だって教えるに当たって「日本語の「浅い」にあたる単語はないが、これはまあ「深くない」と言ってすませればいい」と言うだろうね。

それと。英語の「defeat」は「勝つこと」という意味と「負けること」という意味があり「cleave」は「割れる」と「くっつく」という意味があるのを例に出し「不合理な単語(同書p144)」と言ってるけど、これも私は違う解釈をするなあ。賢明なる読者諸君ならお気付きのように(これを一度言ってみたかった)、これは03/29(3)で書いた「状態を反転させる語」に近い言葉なんだと思う。つまりdefeatは「勝敗をつける」ことでcleaveは「離着する」ことを表してるんじゃない?ええっと、いい例が思いつかないからちょいわかりにくいけど、「Aが渡す(deliver)」と「Bが受け取る(receive)」という行為があったとき、それを客観的に見て僕らは「AがBに渡す」と「BはAから受け取る」の二通りしか文の構造を持たないだろうか?そうじゃなくて、その二人の行為を一緒にして「AとBは受け渡しをした」とすることができる。このとき「受け渡し」はdefeatのようにその行為の客観的意味を表す。だから、日本語的にちょっとおかしいけど、「AがBに受け渡しをする」という使い方もdefeatならアリなわけ。(*注 僕が英和辞書で読んだ限りdefeatもcleaveもどっちの意味か混乱するような文例は見当たらなかった) うーん、でも「カタカナの単語の排撃を叫ぶ人たちも、漢語は排斥するのを忘れていた」なんてのはかなりいいと思ったけどね。言語は守るべきようなものじゃないし、なによりも、言語の自浄力は思いの他強い。意味が(言語学的に見て)伝わりにくいような言葉はすぐになくなります。

今日で僕が一年以上行っているチャットルームが一定期間閉鎖になります。なんかさ、すっごく感慨がある。一年って期間がまず長い。一年以上続けてしていることをあげろって言われてもそうすぐにいくつもはでてこない。それに、僕は感情的な部分をそのチャットで現すことが多かった。悲しいことも、楽しいことも、嬉しいことも。この一年間で自分の感情を感じたときにはいつもそのチャットが関係していたときだと思う。愛着、そして思い入れがある。多くの人に出会い、ネットだけではなくオフ会であったりさ。また1ヶ月後には復活するわけだけど、それでもこういうことがあると自分がそれだけそのチャットが好きだったかがわかる。たった1ヶ月の別れなのに、涙が少しだけ出る。悲しいわけじゃないよ。じゃあなんだろう?なんかさ、とにかく涙がでるんだよ。ネットだからとか、チャットだからとか、そんなこと関係ない。僕はそこでチャットをするのが本当に好きだったし、これからもずっと好きだ。たくさんの人と話してさ、いつのまにかいなくなっちゃった人、別れを告げていった人、これから出会う人、これから別れいってしまうだろう人、全員に感謝を言いたい。そして、管理人さんにも。どうも、ありがとう。そして、これからもよろしくだゼ!! この想い、誰にも文句は言わせない。

降る星の数 数えたら 泣くのに飽きたろう
笑う月の蒼さ 傷をなでて 閉じていく
Stay free your misery.... (hide;MISERY)

04/06(2)

4月5日のうちにもう6日のNo.2を書いてる。わけわかりません。てか、日記じゃないしね?いいじゃん。思いついたらどんどん書く。ということで日記を読み返してて気が付いたようなことを。さっき言った言葉自体に正当性がある言葉だけど、つまりこれは誰もが言える、ということだし言葉が独立してるということなんだよね。人間から独立した言葉。例えばさ、小説の登場人物のセリフって読んでるときに作者が言ってる言葉だとは思わないでしょ?その仮想のはずの登場人物があたかも(あんまり好きな言葉じゃないな)実在するが如く(わざと変なのを使う)考えて読んでいるんだ。吐き出された言葉が自分で歩き出してる、と考えることができる。心理学も混ぜ込んで考えるなら言葉という対象がもともと人間の意識を反映したものだからそこに人間の意志を投影している、とも考えられるんだけどそれはおいといて。言葉に力があるということはその言葉に論理性があってまるで自律的であるかのように思えることなんじゃないかな。多少比喩的にいうなら(てか比喩しか使ってないけど)「言葉が言葉を生み出す」というような感じ。だからAの次はB、Bの次はC、Cの次はD、と書かれているとじゃあDの次はEだ、と言いたくなるけど、それは間違い。どこにもアルファベットの順番で書いているというルールは書かれていない。わかる?言葉が言葉を生む過程とは人間が言葉を解釈する過程でもあるんだよ。言葉は人間の意識から半独立的に存在するんだ。人間の意識なしに言葉だけが存在することはあり得ないけど、ある言葉はそれが誰でも言える、ということにおいて個々の意識から外部にはみ出している。これまた多少専門的に言えば(しつこいようだけど私は専門じゃない。間違ってたらしらん<ヲイ)、ラング(言語体)が共有される基盤(つまり文化とか)において一回性の発言であるパロールは無根拠に発せられるわけじゃなくラングに則って発せられる。つまり逆接的に言うとラングに則ったほぼすべての言葉は主体から独立している、と言うことができると私は思う。

昼間はけっきょくなにも食べずにいて、夜にインスタントラーメンを作ってみた。インスタントラーメンって作るの数年振りだったね。数十時間ぶりに食べた食事が重めだったせいか多少胃もたれしてなんかおなかの調子が悪い。熱いほうじ茶を飲んでます。関係ないが私は熱いものが好きだ。そこらのお年寄りよりもよっぽど好き。家族で一番熱いお茶が好きだし、お風呂はすごく熱くするので私が一番最初に入ります。夏でもラーメン食べるし。これは違うか。夏でもホットコーヒーです。熱いのが好きだし暑いのは苦にならない体質。夏でもずっと長袖のシャツを着てます。中学校高校とありがちだけど冬服を最後まで着ていて秋に最初の日に着てくる奴。しかも夏の間も長袖のカッターシャツ。でも去年の夏に珍しく半袖で友達に会ったら「イメチェン?」と言われた。夏は冷房ありません(冬ならあるわけじゃないが)。クーラーどころか扇風機なし。うちわです(笑) 汗かかないしね。そういや流れるような汗っていつから流してないんだろう?いや、運動をまったくしないわけじゃないけど、多少の運動じゃ流れるほどはね(^-^; あ、汗かいてる(笑) というか直射日光が嫌いなんです。蛍光灯大好き人間。それも昼白色に限るね。げぷ。

「日本語」のなかで面白かったこと。僕は全然気が付かなかったけどよく考えると「経文」って中国語なんだよね。読みはすげ日本訛りだけど。もしかして一番外国語に汚染されてるのは仏教界じゃなかろうか?(笑) また髪の話題。それくらいしかアイデンティティないし。うっせーな。せめて髪くらい自慢させろよ。椅子のキャスタが回りにくくなったから逆さにしてカッタで絡まった髪の毛を切り解いていました。うじゃうじゃ出るわ出るわ。なんか怖いね。僕の家のお風呂場の排水溝はいつでも髪の毛が山盛りになっていてホラーの世界です(笑) あ、でもそういうときって普通は黒髪か。三原山に登ったときに貞子は見ませんでした。

04/06(1)

私のパソコンで「かんじょう」を変換するとたまに「管嬢」になります。で、意味がわからないから辞書で調べてみたんだけど載ってないんだよね。漢和辞典にも載ってない。なんだろ~~?って思ってたんだけどさっき気が付きました。「しんじょう」を変換したら「紳嬢」だって。つまり、加奈子嬢、というようにお嬢様を表してたんですね。そりゃ無理があるだろ。「天壌」とか「翔嬢」とかさ。そんな女がいたらヤダ。いや、翔って名前のイメージからするとなよなよしてそうだからまだいいんだけどさ(そうか?)、「玄嬢」は絶対ヤダ。バイセクだろうとジェンダーがなんだって俺には関係ねえから勝手にしてくれだけどゴリラみたいな男が女だって言ってるのは許せねえ。てかさ、それだったら俺の方が、、、、やめとこ(笑) 今日(6日)は昼から出かけて夕方帰宅。帰りにミスタードーナッツによって夜になる可能性85%。あしたは朝から重要な用事があって夕方までみっちり。机に向かいっぱなしでしょう。疲れるなあ。そのあと星ヶ丘に行って友達に会います。ミスタードーナッツで(笑) だって時計欲しいんだもん。僕はタスクバーを大きく使うためにパソコンの時計表示消してるからパソコンの下に昔使ってたPHSを時計代わりに置いてるんだけど、それが見にくいんだよね。それでちょうど机の上に置ける小さな時計が欲しかったのさ。そういえば中学生のころやたら時計を集めることに凝った時期があった。インテリアになるようなアンティークな時計とかじゃなくって1000円もしないような安い時計。最大時で40個くらいあったかな。もちろん全部動いてる。情景としてはちょっと999の機関室。夜、寝るときに電気を消してベッドにはいるとカチコチカチコチうるせぇ。一個の時計ならカチコチと1秒単位だけどいっぱいあるからカチコチカチコチカチコチカチコチカチコチカチコチカチコチカチコチなる。もう時を刻むと言うよりは精神が刻まれてる。そんな寝不足な生活をしてたらこんな人間ができあがりました(嘘)。

雨が降ってると出歩きにくいです。なぜなら靴に穴が開いてるから。「穴が開いてる靴下」って、穴が開いてなかったら靴も靴下も履けないけどね?そういうことじゃなくって。普段履いてる靴、めちゃぼろい。また買ってくることにしよう。もちろん安いやつ。私は靴にはそんなにこだわらないんだけど、靴紐の編み方にこだわってます。普通のとちょっと違った編み方。この前知り合いに指摘されてちょっと嬉しかった。小学校5年生の時から変えてないこだわりだからね。そういうのってなんか嬉しいよね。学校って休むと次の日、教室になんか入りにくいことなかった?なんかさ、一日いなかっただけで疎外感を感じるの。もしか僕だけ知らないことがいっぱいになってなかったらどうしよう?って不安になる。人が休んでもそんなこと思わないくせに自分が休むとすげ気になるの。それでちょっとどきどきしながら教室の扉を開ける。友達がまたいつも通りに話しかけてきてくれた時にもうめちゃくちゃ安心しちゃってさ。ああ、忘れられてなくってよかった~~って。一日じゃそんなことなるわけないのにさ。小学生(とくに低学年)のときはそうやって人の目を気にして生きてきたかな。いつからだろう?休むのが悪いことだって概念が消え去ってしまったのは(笑) ただ、今でも少し人の目を気にするところはある、か、な。世間体なんて知ったことじゃあないんだが(笑) じゃなきゃこんな髪してねぇ。こんな服着てねぇ。俺はまだ社会と戦っていくし、そうやって生きていく。なんてかっこいいんだ(笑)

かなり前に書いた詩を発掘。

「If all lie, just kill me.」

ゆめをみました。
楽しいゆめです。
ゆめはどんなゆめでも楽しいの。
だって、儚いということをちゃあんと知っていますから。
この、一瞬の幻想だから楽しいんです。
あなたも知っていますよね?
だから、私が手を離しても良いですか?
もう、だいじょうぶですね?
もうそろそろ、纏を脱いでも良いでしょうか。
私も弱いですし、あなたも弱いです。
私はあなたに与えてもらいましたが
その分あなたのことも見てきました。
もう、一人で歩けますね?
だいじょうぶ。最初は誰だって不安なんです。
私だって不安です。
でも、このままというわけにもいかないでしょう。
だから、おやすみ。
だから、さようなら。
また、会いましょう。

またいつか、一人迷っても
聞こえたなら、軽やかに歩き出せる、、、、

04/05(2)

外は雨が降っています(つまり中は降っていない)。雨が降るとドライヤがかけにくくなってやですね。こんがらがってっきゅ♪という手の運動の歌があったんですけど誰か知らない?ということで髪が絡まる。ご存知の方が多いように私は髪が長いから目立たないんだけど、もとは天パーなんです。てか、長いからと言うより染めまくってるせいで弱くなったのかな。私の母方の家系の血筋は太くて黒くて固いです。さらに私は長い。髪がね。って、だめじゃん(ナニが?<しつこい)。なんかよくわからないものが配合されたパンが作られたようです。ドコサイッタノサヘキチ酸だったかな?食べると血中コレステロール値が下がるみたいです。

殿「この柱はなんと申すか?!」
家来「殿、電柱で御座る!」
ってどこかで使ったネタだな。

けっきょくさぁ、「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」ってウィトゲンシュタインが言ってるから偉そうに聞こえるけど、実際はどっかの先公が「お前等静かにしろ!!」って言ってるのと同じことなんだよね。ルール規定がルール違反になってるわけさ。てか、それはいいんだけど、誰が言ったかで言葉の持つ意味に付加価値がでてくるのは、小説なんかではいいとしても論文ではやばいよな。僕が今さ、「もうたくさんです!もうたくさんです!」って書くとやたらいろんな判断ができちゃうわけだけどこれってニーチェの言葉なんだよね。、、、、ってニーチェだと聞くとまたなんかすごいことかと思っちゃうわけじゃない?(半疑問形) でも本当はこれは「道徳の系譜」の中で人間の善が生成される過程を見た生徒が叫ぶ言葉なわけ。つまりまったくどうでもいいし、関係ない言葉。だからやっぱり誰がその言葉を言ったかじゃなくって言葉自体に論理と正当性を与えなくちゃなあと思う。デカルトの「コギトエルゴスム」っつったってその「コギト」自体が重要で、デカルトが言ったかどうかなんて知らなくたっていいし。まあ懐疑の末に辿りついた、ってことは知っておかないと言葉が上滑りしちゃうけどね。だからさ、言葉が力を持つためには二通りあると思うのサ。まず一つはそうやって論理を埋め込んで正当性を客観視した言葉。誰が言ったって誰が聞いたってあてはまる普遍的真理。そんなものが理想的にあるとは思わないけど実生活ではそれに近いものがあるからね。そんでもう一つは逆説的だけど思いっきし全力でコンテクストに乗っかった言葉。僕みたいなおちゃらけた奴が「死のうかな」なんて言ったって「ああ、死ねば?」って言われるのが落ちだけど、ストイックに人生を生きてきた悩み多き青年(ぷぷ)が部屋の片隅でワーグナーを聴きながらナイフを見つつ一人「死のうかな」って言ったらやっぱり重さが違うわけさ。つーか言葉に力があるなんて幻想だけどね?能動者の意識と受動者の意識がリンクしてると仮定して受動者のみが言葉に力を感じ取るわけ。悩み多き青年がたまたまジョークで「死のうかな」と言ったのを受動する人がその青年の生き様(うぷぷぷ)から考えて力を自分で生み出してるんだよね。まあ多少専門的(僕は専門じゃないけど)に言うならば発信者のメッセージは受信者に至って受信者のコードで解読されるわけで、そのときにコンテクストも参照されるってことなんだけど。

もう一回考えてみたんだけどやっぱり哲学って言葉の定義をする学問なんだと思うな。「空間」とはなにか?って問いに対して「空間」という言葉を言葉で説明しようとしてるわけでしょ?だから、ちょいと説明するのがめんどくさいから飛ばすけど(笑)、その「空間」がもし言葉で説明しきれない範囲のものだったら言葉は意味を持てないんだよね。あ~ちょち自分でわからんくなってきた。また後で。

04/05(1)

あ~またやっちゃいましたね。フォントサイズを小さくしたままだった。見にくかった人ごめんなさい。私はブラウザの文字サイズを最小にして見てます。そしてエディタはフロントページエキスプレスを使っているのですがこれは文字が大きいと鬱陶しいからサイズ小さくして書いてそれからアップする前に大きくしてるんです。だから大きくするの忘れてても自分じゃすぐに気が付かない。気が付くのは次の更新のときです。だから今気が付いた。大きくするの忘れてたら大変、というかなにもできませんが。そして書いた後にまったく矛盾することだけど今日の朝にしてたチャットちょいエロ目入りかけの人がいてかなりご立腹。普通のチャットでエロ系の話を持ち出す奴はサイテーですな。微エロOK。「普通の」とか「微」の基準を聞かないように。あくまでも私的な基準です。ああそうか、彼にとってはもしかしたら微エロの範疇だったのかもしれません。そいつぁ困った(笑)<困ってない だいたい私は基準をかなり客観視しないところがあっていわゆる自己中心的人間です。広告機構にも「自己虫」って怒られちゃいます。(*^ー')ゞ ~♪ てへ。悪いことだから直そうとは思ってるんだけど、基準が内部にあるのをなかなか外に出すのは難しいんです。なんて言い訳してる暇があったら直しましょう。自分に言い訳しないように。人に言い訳するのは簡単だけど自分にするのはもっと簡単。自己言及性の問題だけどそんなこと言ってると屁理屈だと言われます。摩擦のない円満な人間関係を作りましょう(今日の一言)

てかさ、そんなことはどうでもいいんだよ。腹減ってんだ。ヘリハラハラヘリ。ヘリハラハラヘリってとある人名と似てると思うんだけど今はまったく関連してない人の名前なので出さないようにしましょう。コンビニ行こうかと思ったら雨降ってんじゃん。家出るきなし。いや、この時間にコンビニ行こうと思うのがどうかしてるのかもしれないけど。だって腹減ってるんだもん。冷蔵庫にもストックなし。仕方ないからとりあえず冷やしてあった水道水を飲む。暇だからラジオ聞いてるんだけど。やっぱAMだね。FMは音楽のセンスは良いけど話がツマンネエ。この時間なら少しくらいエロ系でもいいんじゃない?てか聞きたいし?ということでAMにチェンジ。「夢の中へ行ってみたいと思いませんか~~~♪」っていつの歌だ!!今さ、金田一春彦の「日本語」の上巻読んでるんだよね。めちゃ面白い。さすが近代値、じゃない、金田一耕助のモデルにもなった金田一京助の息子だよね。この人の本を読んだのは初めて。あれ?でも国語辞典の編集委員にはほとんど入ってるから読んだことあるとも言えるのかな(笑) もちろん、本の題名は「日本語」だけど、面白いのは日本語の特質から考察する言語自体の働き。まあ国語の特質ってのも雑学的には面白いんだけどさ。今日は雨が降ってるし、ミスドには行かずに家でこれを読んで過ごそうかな。

04/04

さっさと過去ログにしちゃいましょう。どんどん流す。一瞬の思考の煌き(ただし煌きとは構造的な使用法であって一般的な意味での煌きではない。閃光のような思考、から良いイメージを抜いたような言葉を想定してもらいたい)はすぐに消え去るべきだから。あるものが「ない」、とはあることを前提にして語られる。あるはずのものがない。ないものはない。あるものはある。存在が許容される空間でその穴は存在を浮き彫りにする。真空空間は陽電子が詰まっている。存在を前提とされないものが存在しないときそれはまったく存在しない。そして語られない。語られ得ない。AがBでBがCならAはCだがAが空集合ならそれを記号化する以外に意味はない。非常に脳が疲れている。だから解きほぐす力がない。よって私は今思考をそのまま書いて解説を放棄している。わかる人はわかるだろうしわからない人はわからない(当たり前)。そして多分誰もわからないだろう。これはプレーンテクストなんだから。私の頭の中を切り開いてフィルタリングせずに覗いた状態。論理の構築は後追い。ただし、論理を構築する論理は前提。論理は創造性から生み出されるがその創造性はある一種の思考言語に支配されている。見ているもの全てが本当ならば?早く、早く、行ってしまう。、、、、もう抜け殻。

昨日の夜、TVを点けたら世界丸見えが特番でやってたね。少しだけ見た。見たのは後半のところかな。おじさんが蛇を捕まえようとしてるの。うらやましいなあ。なにが好きって蛇が一番好き。蛇ほど好きな生物はいない。爬虫類両生類は全部好きだけどその中でも断然蛇。可愛いとか、美しいとは思わないんだけど。愛知県には香嵐渓蛇センターというところがあるんだけど、そこで蛇に囲まれてるともうめちゃ幸せだね。そのTV番組でもやってたけど、ニシキヘビを持つなんてもう最高ですよ。哺乳類より絶対に爬虫類。そういやNHKのクローズアップ現代って時間が変わったんだね。夜7時30分からになってた。昨日はなんかで遅れて8時からになってたけど。生活リズムが狂う。そんなリズムありませんが。有珠山が噴火しましたね。今のところ小規模なようですが。有珠山に登ったことがあると言った後に気が付いたんだけど私は大島の三原山にも登ったことがあるし、雲仙普賢岳も見に行ったことがあるな。

バイクに乗っているとき、前の車のウィンカを見てると車種によってかなりリズムが違うことに気が付く。だから車が並んでると前から後ろに光が流れてくるように見えていたのがすぐに後ろから前に流れていくようにも見える。ああ、そういえばパチンコ屋の電飾なんかも一個一個の電球をつけたり消したりして流れを表してるな。そう考えればLEDの文字板なんかもそうだ。それがそうならばブラウン管だってただのドットの集まり。一つ一つが無意識に活動しているつもりが上位では意味となって現れる。社会の構成。私は一つの電球。抗おうと点いたり消えたりしてみるがそのリズムだってけっきょくは決められた運動なんだ。私は、私の点灯でなにを表そうとしているのだろう?だれかTELL ME.

ルービックキューブは上下を逆さまにしてもその色の配置は変わらない。ただしそれをみる私は上下が逆さまになったと判断する。しかし地球が逆さまになったら私は一瞬ではそれ(方向の違い)に気が付かない。空を見て太陽の進む方向が逆になってるとか星が(星座が)違う様相を見せているとか、判断材料を外部に求めなくてはならない。系の内部で起きた現象はその働きを外部に求める(それは、働きの相対性とでもいうべきだろうか)。それが客観性というものでもあると私は思う。ルービックキューブと地球のメタファー。色の配置と地球の方角のメタファー。一点のメタファーは点的に存在するが点を結ぶことによって線という関係ができその構造がアナロジーを生み出す。そのことを考慮すれば概念が定義できないために曖昧なのか推論であるために曖昧なのかが区別されるだろう。対象の不確定さ。その指標化。基準が自身であるならばその規則は私的なものとなり規則は規則として働かなくなる。定義も外部を求める。絶対固定軸はどこにもない。どこに支点を置くか。それだけが問題だ。私が私であるということは私が私と関わりを持つということに他ならない。私はその私の周囲に手を伸ばし私を固定しようとする。そしてあがき、もがき、沈んでいく。それを拒否するために私は目を閉じ自身の思考があることを確認して軸を私の中に置く。いつでも私が中心。定義を定義せよ。

カナヨー ウムカジヌ タティバ
ヨーカナヨ ヤドゥニウラリラヌ
リチャヨ ウチチリティ ヨーカナヨ
アシディ ワシラ
「かなよ」

「文章が集まり一つの(複数でも可)記号現象となり私は伝達を期待する。ただし、私の文章にはフィルタが多すぎるかもしれない。網の目は様々に形を変え脱落者を増やす。残るのはなんだろう?伝えようと私が期待すること(=伝えたいこと)を転送するために私は多くのフィルタをを使う。私にとっては「その言葉」と「その、言葉」と「その、、言葉」(更には「その。言葉。」「そ、の、、言葉」「、、その言葉」「、、、、その言葉。」「「その」言葉」「その言葉、、、、」など)すべてが違う意味を持つ。僅かな違いだ。しかし、微妙なラインを潜り抜け私は私の言葉を正確さを期待しただ一つの到達地点を目指し投げるならば私はその努力を厭わない。言葉、そして行為の持つ意味。吟味せよ。それは正しい判断か?あくまでも可能性だ。楽観的な予測だってできるじゃないか。なぜにそこまで自身を追いこむ必要がある。そこにある懐疑の根底はなんだ?わかってるだろう。ただし、それだけは吐き出さずに済ませ。」これが一つのシニフィエ。そしてそのシニフィアンは「、、、、」。

小さなポッケで蹲って 見上げた空は黄色くて
あの空の向こう側へ 向こう側へ
material goodbye, no spiritual
渇いた唇が輝いて 座り込んだ椅子は冷たくて
あの扉の向こう側へ 向こう側へ
mathematical goodbye, no metaphysical
僕らはきっとこの街で 歪んだ傷を見つめてる
つかんだ手首のその赤さ ずっとずっと
一つの真実と一つの嘘は 僕を選べと叫んでる
その小さなその小さな その小さなその小さな
だから僕は嘘をつく
material goodbye, and spiritual