Wednesday, March 29, 2000

ログ21('00 03/28~04/03)

04/03

今日はコンビニでジャンプを立ち読み。やっぱ一番面白いのはヒカルの碁だね。とまあそんなことしかない一日だった。こういう日々の過ごし方が好き。パソコンのテクストってほったらかしにすると虫食いがあるんですよ。マジで。証拠がどこかにあります。、、、、要するにマイナスへの発話です。この「マイナスへの発話」という文章が正しく読み取れる人にのみ発話された言葉です。裏書言葉みたいなものですか。ここ数日で視力がなぜか急激に悪くなっている気がする。家じゃめがねをしてるんだけどよく見えなくなって来たな。唇も荒れてるしな、、、、と考えてみるともしかしたら食生活のせいか?まともな食事をとってないからでしょうか。あしたからきちんと食事をしてみましょう。

ミスタードーナッツが全商品30%OFFになってます。30%OFFだとコーヒーにドーナッツ一個が普段380円くらいだからOFFにしたあと300円になりません。だともう一個ドーナッツを食べなくちゃラッキーカードがもらえない。そういうことは社内会議で問われたのかな?「この企画をすると、お客様はドーナッツを一個余計に食べなくちゃいけなくなるのですが」「しかしそれがなにか問題になるのかね?」「いえ、直接はないかもしれませんがもしかしてこちらがサービスだけではなく拡張を狙ってであると思いになられる方もいらっしゃるかもしれません」「そんな人は滅多にいないだろう。それにもともとどんなサービスもそういう広告を兼ねたものだよ」「そうですね、わかりました」きっとこんな議論があったんだろうなと考えながら美味しくドーナッツを頂きました。

 

04/02

眠いですね。さっき机に片肘付いて寝てたので首が痛いです。家を出るときいつも通りバイクに乗ってたんだけど警察に注意されちゃった。パトカーを追い越したら「原付の最高速度は30km~~」って。国道を30kmで走ってたら危なくて仕方がないです。こう見えても罰金を払ったことは一度もない。スピード違反で捕まったことも信号無視で捕まったこともない。捕まったことがないと言うことはその事実はないということで私はスピード違反も信号無視もしたことがないんです。偉いでしょ。家を出て一つ目の交差点でもう国道にあたります。そこを左折すると名古屋の市街地方面。橋を渡ったりするけど基本的にはずっと一本道です。最初の交差点でひっかかると次にどこの信号でひっかかるかわかります。ひっからなくても曲がってすぐの交差点にひっかかるので同じパターンになる。渋滞してない限り同じ信号に毎日ひっかかります。二回止まって黒川まで。夜に帰ってくるときはパターンがちょっと狂って一回のストップかノンストップで家に着く。車で走ってる場合車の流れに対して自分の車だけ早ければ早いほど信号待ちのとき最後尾に付くことになる可能性が高いです。さて、なんの話でしょうか。あしたは今日と同じような時間帯で用事があるでしょう。

きのうはあんまり時間がなかったのから適当に日記を書いたのでもう少しだけ注釈を付けときましょうか。「実際の言語活動ではあり得ませんけどもしも今の言葉がすべて正反対を示すことになったら」というところだけど、なんであり得ないかというのを説明しなかったね。まあ確かにそんなことは現実的には起こらないだろうけど、僕が言いたかったのはそういうことではなく、言葉には「正反対」ということがもともとないから、ということです。0と1だけやアルファベットの表記だけ、というような理想的環境ならいいんだけど言葉の示すところ、つまり対象や対象としての意味ですが、それがまったく正反対になることは、ない。これは「明暗」「高低」「嘘と真実」の説明をもしもちゃんと読んでいてくれたなら納得してくれると思います。正反対になり得るのは言葉の関係が環になっているときだけ。ただしそれでもやはり言葉は他の言葉と相対的に結びついているからその関係まで反対にすることはできない。ドラえもんに「今の地球となにもかもが反対の星」、という概念の星が出てきます。のび太君はその星では女の子でとても頭が良く友達にもてはやされるのですがその星においては「あたまが良いのは良いこと」という概念が反対になっていない。いや、地球で友好関係を持っている人物とは敵対にならないのか?とかまで考えられる。その星では左右が反対になっているけど地図をみたときに南北を反対にして東西を反対にしたら180度回転させた地図になる。さらに上下を反対にしたら?そこで左右を反対にしたら?時間の流れは反対じゃないの?現実世界では一つのことに対して反対にはできても全部は反対にできないんです。だから(だけじゃないけど)嘘をつくと言うことは真実の反対を言うことだとは限らない。もう少し嘘について書こうか。「僕は嘘をついていない」という言葉がここにあります。この言葉の発話者は正直者か嘘つきか?というのが古来からの嘘つきのパラドクス(正確には「僕は嘘つきです」がパラドクスなんだけどここではこれをわざと使う)。正直者は嘘をついていないから嘘つきじゃないといえる。嘘つきは嘘をつかないといけないから「嘘をついていない」と嘘をつく。よってこの言葉の発話者が正直者か嘘つきかを判じることは不可能だ、というのが意味論(シンタックス)的なアプローチです。これに対して語用論(プラグマティクス)では「正直者は「私は嘘を言っていない」と弁明する必要がないのでこの発話者は嘘つきであると推測(あくまでも推測)することが可能である」となる。もちろんこれが法廷での発言なら事実を詐称したと疑われている正直者が釈明のために発言したのかもしれないし嘘つきが刑罰から逃れようと考えて発言したのかもしれない。ともかく語用論ではそうした発言の置かれた状態、コンテクストに留意する必要がある。電話が繋がらない、という状況は意味論ではたんに会話ができない状況を示すのみですが語用論では「充電が切れている」「電源を切っている」「電波の入らないところにいる」などが考えられそれからまたそれぞれの理由に細分化していきます。詳しくは書きませんが。

次の説明。「同一という言葉を厳密に定義しようとしたならば同一のものなどただの一つもないことに気が付くだろう」同一とはつまり難しく言ってるだけで「同じこと」だね。「AとBは同一である」は「AとBは同じもの」を表してる。ただし、この「同じ」はなにか一つの(複数でも可)条件についての同一性を示しているに過ぎない。それを書き記すとしたらこうなるかな。まず、同じものと言うんだから同じ記号を使おう。XとX。XとXが離れた状態であれば「X――――――X」であり、近ければ「X―――X」だったとする。さらに近くなって「XX」。これが「X(という同一のもの)が2つある」と識別できる最近値です。だって次にくる状態は「X」だから。いい?少し飛ばして言うよ?完全に同一なら区別されずに一つのものとして認識されるんです。双子の人達が大人になってから入れ替わったら少なくとも本人達が気が付くけど赤ん坊のころに知らぬ間に入れ替わってしまったら誰も気が付かない。入れ替わったという事実はなくなるのです。

哲学的な問いの一つに「人間とはなにか?」というものがあるね。前は僕は多角的な条件指定で狭めていけば人間という概念が消えると思っていました。例えば四肢があり意識があり脳が発達していて言葉を使い文化を持ち、、、、ってね。この条件はほぼだいたいの人に当てはまるけど一部の人(という言葉は使えるのか?)にあてはまらなくなる。身体障害者の方や脳死患者、植物人間(正式な言い方ってないのか?まさかこれであってるとか?)、狼に育てられた少年、人工知能(AI)を搭載したコンピュータ、などなど。これを人間じゃないと言いきることはできなくはないけどどうも僕自身齟齬を感じる意見だと思う。そこで新しい解釈を考えたんだよね。意識を持つってことは人間の「特徴」であって、人間であることの条件ではないんじゃなかろうか?知性、理性、文化を持つ、、、、ってのは全部特徴で、条件は「身体の特徴」だけ。DNAとかね。まあ言葉のレトリックかもしれないけどやたらな定義を振りかざすよりもいいと思うな。珍しくまともな意見だと思うし(笑) 意識を持つのが人間だけである、ということが特徴と条件の混同を引き起こしてるんだろう。カレーの辛味はカレーの特徴だろうか?条件だろうか?

04/01(2)

エイプリルフールを一つの指標とし「嘘をつく日」と概念化したときそのメルクマールは意味を記号化する。その記号を虚偽として報告したとき嘘を象徴とする記号は嘘に内包されるが実際での関連のない交差空間的同一性は反転を拒否するので二重のものから生まれる多義はここでは起こらず一つの正当なフェイクとしてしか機能しない。私が3月31日を4月1日と表記したことによって以上のことが推測だけじゃなく実際にもあり得ることがわかりました。もちろん嘘です。いや、嘘というか後付けで考えたことです。たんに日付を間違えただけ(笑) 私は実社会との関連が薄くて曜日とか日付をすぐ忘れます。今平成何年か知らないです。自分の星座を知らないです。聞いたことはあるけど覚えようとしたことがないです。前にも書きましたが5人家族(両親+姉、兄)だったのに一人の誕生日も知らないし年齢さえ知りません。ましてや家族の血液型なんて。あ、これは知ってないと困ることもあるのか。それよりもまず自分のことを知らないな。靴のサイズとか。

掲示板でSelenやスガモンさんが嘘について書いていますけど嘘とはマイナスへの発言の一番わかりやすい表現かもしれない。なぜなら、真実がなければ嘘はあり得ない。真実との対比によってこそ嘘は生まれる。実際の言語活動ではあり得ませんけどもしも今の言葉がすべて正反対を示すことになったらその関係は今の状態と変わらないものになる。正反対というと齟齬があるから、こういうのはどうでしょう?2進法による表記、「0011011100」が「1100100011」になったとしたらその表す情報はまったく同一になります。すべての0と1を入れ替えれば同じことを表してることになってしまうのです。もっと範囲を広げればアルファベットの順番を入れ替えても入れ替えられた後の法則が守られる限り変化はまったくないのと同じです。自身の変化と環境の変化が対応して行なわれるならばその変化は現れない。「摩擦の多い大地に戻らなければならない!!」-L.ウィトゲンシュタイン-

嘘をついていることを知っている者が一人もいなければ嘘は嘘でなくなってしまう。真実を意識するものがいなければまた真実も真実足りえないのですが、、、、しかしその状態こそが真実だと言う者もいるでしょう。しかしその状態を真実だと言う者は言うことによって真実を自覚しなくてはならない。だからこそ真実は語り得ぬものであり語り得ぬものについては沈黙しなければならない。私は語ったことにより真実を放棄し、真実を自覚することによって真実から目を逸らさなければならない。

パラサイトイブは話としては面白いけど小説としてはつまらない。なぜなら圧倒的なページ不足。ああいった小説の要はなんといっても論理のすげ替えを見せずに行なうかにあると思うから。あの小説はどこの何ページで、と指摘できてしまうほど急な話の転換があるからね。せめてあの倍であったなら面白くなっただろうに。瀬名さんがこらえられなかったのか読者がこらえられなくなるからとっとと書いたのかはわからないけど残念な部分だ。その後に出たBRAIN VALLEYはもっと急展開。素材が美味しいだけにもうちょっと長くしてほしいと言う気がしないでもない。ただし、それは作品としての評価であって、本としてあれ以上長くなって値段が高くなったら買わなくなるね(笑) だから短くなったのかも、ということだけど。珊瑚は満月の夜に産卵するね。それも一斉に。その共時性が不思議だと言う人もいるけど私はあんまり不思議だとは思わないなあ。だって、三日月で産卵するよりはずっと自然でしょ?最大、最低で閾値を迎えるのは簡単なんですよ。難しいのは中間でバランスをとること。がむしゃらにがんばるのもだらだらし続けるのもさして難しいことじゃない。適当にがんばり適当に遊ぶことが難しい。珊瑚は珊瑚虫の集合体だけど、それで一つになる。集合にならなくちゃ種としての機能を果たせないからね。その意味では人間だって細胞の集まりではあるわけだけど、人間にはそれ以上の意味がある。それは「自覚」だろうね。集合であることの自覚。明示的意識。いま、ここに、この、実感があることの自覚。脳細胞が集まり意識が生み出されるがその意識は脳細胞が集まると言う現象を自覚的に捉えさらに意識に明示し意識自身が意識自身を対象とし意識を照らし出す。いつかfMRIなどの機器の発展により脳の状態を把握することによってそのときどんなものを見ているか、どんなことを考えているかがわかるような時代がくるかもしれない。それは科学の発展によっては論理的に十分可能だろう。しかし、脳の状態によって被験者が赤色を見ていることがわかることと被験者がどのように赤色を感じているかを結びつける理論はその片鱗さえまだ現れていない。同一現象なのに、いや、同一現象だと言いきることさえできない、しかし、同一ってなんだ?同一という言葉を厳密に定義しようとしたならば同一のものなどただの一つもないことに気が付くだろう。定義という言葉を厳密に観察したならば定義できることなどただの一つもないことに気が付くだろう。すべての現象は相対的であり、そうである以上全体は空転する記号の集まりに過ぎない。言葉を細分化すればそれはまたもとの言葉に戻ってしまう。現れたものはすべて存在し、現れないものは存在しない。過去において。未来において。そして現在という零点は零の名を持つ場合においてのみ存在を許される。

では、また。

04/01(1)

「ある愛の唄か、、、、。ある愛、ね。、、、、ねえ、愛ってなに?」 L'amour Fou

ミスタードーナッツでコーヒーを飲んでいるとたまに手話を使っている人達を見かけます。でもみんな普通に口でも話してるしどうも謎です。近くに手話の学校でもあるんでしょうか?もしかして綾取りのイメージトレーニングをしてる可能性もありますが、、、、ないか。4月1日といえばエイプリルフールですね。でも私はエイプリルフールの起源は暦の変換から、、、、とかクリスマスはセント・ニコラウスが、、、、とかバレンタインデーはもともとチョコを贈る日ではなく、、、、などといったありきたりの話をするつもりはないのでなにも言いません(笑) 物事はなんでも形骸化してからが本質です、なんて言うと言い過ぎだと思うので言わないようにしましょう>自分。祭りなんかは本質的にやるつもりなら現代では無意味もいいところなので形骸化してないと困るんですけどね。だからまったく嘘というわけでもないです。適材適所、じゃないな。なんかこういうときに使う諺ってなかったっけ?今月号のニュートンはそこそこ面白かった。ただ、銀河同士の衝突シーンはシュミレーションの映像が面白いんだけど誌面じゃそれが伝わってこないのが残念。CD-ROMを付けるか、本に閉じ込みがあって開くとパスワードが出てきてサイトにアクセスして打ち込むと動画が見られる、とかだと良いのに。今日から数日忙しくて更新できないかも。ちょっとやりたいことがあったんだけどね。またひまになったら公開します。

明暗と言われるように「明るい」と「暗い」は反対語として使われるけど、実際には反対じゃないんだよね。まず「光」があるならそれは「明るさ」として捉えられる。その明るさの度合いによって明るい、暗いと言われる。つまり明るさを無視した「暗い光」はないわけで、その意味でただ明るいだけの光もない。例えば光と影は対で考えられるけど「明るい光」と「暗い影」があっても「明るい影」と「暗い影」はない。影は0として認識され増大する方向に向かって明るさが増していく。そのときの明るさと対比されることによって暗さは生まれる。こういう言葉は多いですね。「高⇔低」「動く⇔止まる」など。他にもいくつでもでてくる。わかりやすい「大小」を使うと、「その大きさ」というとき大きいものにも小さいものにも応用できるけど「その小ささ」と言うと小さいものにしか使えない。形状の空間的占有率は「大きさ」で表されるわけ。この「大きい」と「小さい」の関係は言語学的には構造的非写像性と関わってくるんだけどそれは置いといて\(^^\) (/^^)/、この0から「大きい」へ向かうラインはきのうの日記で言った「マイナスへの発話」と明らかに関連性を見せる(明らか、というのがすでに一つのメタファーですが)。マイナスへの発話は「発話行為」というライン上において発話を前提にし、行為される。言葉があるべきところでないからこそメッセージになる。同じように「大きい、小さい」は「(大きいからくる)大きさ」を前提にし対比される。ただし注意してほしいのはあくまでもこの「マイナス」はベクトルがマイナス、という意味であって実際に0より小さくなっているわけじゃあない。0よりも小さい、という意味でのマイナスはありえない。マイナスの速度を想像するようなものです。ああ、次元を変換すれば別ですけどね。とりあえず私達は私達の言語空間(次元)で言葉を使うので次元を超えても意味がない(それはまた別の話)。0から出た「向き」が反対方向を指すとき(マイナスがかけられたとき)、明るさに対して暗さが生まれる。ただし「白さ」「黒さ」と言ってしまうとそれは明るさ暗さから意味合いが変質してしまい使えなくなるのですが。この場合「白さ黒さ」は環の一点であり恒常的にとどまるものではないからです。同じ現象を見ていてもそれを「明るさ暗さ」と捉えるか「白さ黒さ」と捉えるかで言葉はまったく違った様相を見せます。これが言葉の面白いところじゃないでしょうか。(我ながら驚くほどきれいな落ちだ(笑))

ネットの友達と会うことを「オフミーティング」と言いますね。この「ミーティング」を日本語にすると「会合」かな。普通「ミーティング」は会議と訳されますよね。面白いことに気が付かない?両方とも「会」という漢字が入ってるんです。もちろんmeetingのmeetは会うという意味。普段「会う」から「会議」は瞬間的に繋がりを持たないけど英語ではmeetingで同一的に表される。つまりはメタファーの働きだけど人間ってのは意外に同じような考え方をするんです。熟語が漢字圏だけのものだとおもったら大間違い。教皇を表す「pontifex」は「pons=橋」「facere=作る」で天界と地上の「掛け橋」を作る人です。窓の外に手が届く、というとちょっと違うけどね(笑&謎) 英語のin-(im-),con-(com-)などは全部熟語構成を示す。説明(explain)のex(外に)、plain(明らかな)なんてわかりやすい。「説明」の訳に「明」という意味の言葉が入ってるのなんてもう感動的でさえありますね。お望みならばいくつでも例をあげることができます。というか長めの英単語は複合的である可能性が非常に高い。3つの複合やときには4つの複合単語もある。韓国人は名前をアルファベットで書くときも姓→名前の順で書く人が多いらしいですね。日本人でもけっこう増えてきてみたいだけど。私も中学生のときにスキー場で知り合ったオーストラリア人に順番ってどうでもいいの?と言われて以来その順番で書いてるんだけど。でもさ、しかたないときも多いんだけど、じゃあなんで漢字ってことにこだわらないの?ってことになるよね。名前の順番に意味があると考えるのと同様に、いや、もっと大きな意味が漢字には込められていると思う。日本人の命名方法は漢字で決めることが多いんだから順番なんかよりそっちのほうが大事だと思うなあ。韓国人は漢字よりハングルを尊重するぶん音にこだわりを持つわけでアルファベットでもいいのかもしれないし。名前なんて識別記号でしかないって人はそれでもいいと言うんだろうけどね。私もそうだし(笑) じゃあ言うなって?(笑) 「北の島へバカンスへ」って「北の島にバカンスへ」の方がいいなって思うのは私だけかな。いや、「北の島へバカンスに」の方がいいかな。そういや1ヶ月くらい前にネットの友人の久美子さんに会ったときに彼女はウイルスやはにわの話をするときにウフウフ笑うので(本当にウフウフ笑う)アブナ~~イ!!と思ったけど(笑)、私も核の話をするときはめちゃくちゃ顔がほころびますね(笑) 核兵器の話を聞いてるときなんてもううっとりです。「彼女、僕と核融合しない?」なんて言ってみたいですね(笑) で、別れるときは「君とはもう核分裂したのさ」なんて(笑) ああ、でもこれ(核分裂も核融合も)って生物でも使う言葉だから私が久美子さんに言ったら微妙な齟齬が起きますね(笑) かくさんっていったら私は核拡散のことだけど(ただし政治核にはあまり興味はない)、久美子さんはDNA(またはRNA)のことになるんでしょうか(笑) 気が合うように見えて微妙に合ってません(笑) 私が落ち込んでそうだなと思ったら「最近の核事情はどう?」なんて聞いてみてください。いきなり元気になります(笑)

僕はたまに意識を感じることがある。ただの意識じゃない。僕の意識じゃない。生物はダーウィンが唱えた進化論によって(ダーウィンが全面的に正しいわけじゃないけど)単細胞から進化してきたことがわかっている。その過程の現段階の最終形態として僕ら人間がいる(それが正しいかどうかはわからないと前に述べたけど)。人間は意識を持ち明示的に物事を考える。そのベネフィット。しかしそれがなぜ選択されるのだろうか。下等な生命だったとき、その種は意識を求めたのだろうか。意識のない状態で。ここで生命の進化論はまず第一の分岐点を向かえる。先を見越してじゃない。環境による生き残り、つまり自然淘汰によって生存に有利な種が増加することができたと。いつも僕は、ここで多少飛躍するけど、非常に不思議な感覚に襲われる。生命の「この」状態は宇宙的に考えて(実際にはそんなことできやしないけど)とても不安定なものだ。すぐに壊れてしまう。太陽の気まぐれなプロミネンスで、たった直径数十kmの小さな石ころが落ちてきただけで。このとても不安定なものが生まれてきてそして進化していくってのはいったいなんなのか。つまり進化することにどんな意味があるのか。哲学的にいうならば僕達はどこからきてどこへ行くのか。自然科学者(特に物理主義者)は、ありのままだ、不思議なことなど何一つないと言うだろう(誰のセリフだ(笑))。でも僕はそこに大きな意志を感じる。平凡な言い方をするならば神。神の名さえ小さすぎるようなもっともっと大きな意志(けっこう前にHPの名前に使ったthe ONEは実はこの意味だった)。生き残ろうとする生命の価値観。増えようとする生命の意義。それさえもこの意志に統率されているような気さえする。僕がここで僕だと思っているのは実はその大いなる意識に操られている人形なんじゃないか、とかね。僕の意識ごと操られているならば僕は僕を疑うことができない。疑っても答は出ない(出させてくれない)だろう。僕が生きようとする行動は生命の価値観、引いてはその意識に操られているからじゃないか?僕が僕が僕が恋をするのは僕の意志によってだけどその意志は操られているんじゃないか?人間が人間として人間であろうとし、生命であるのは意志の名の元においてじゃないか?僕の存在は与えられたものでしか、、、、ない?「ある懐疑」は可能性となり可能性は増大し僕の意識を蝕み存在の根本は崩れ落ちデカルトは死にニーチェは神を殺しウィトゲンシュタインは黙るだろう。でも、だから、そして、僕は言うしかない。それでも僕は、僕だ!!。沈黙。

03/30

もうちょっとだけ相対性理論に説明を加えておこうか。光速で飛ぶロケットの中からは光がちゃんと前に飛ぶ、というのはアインシュタインの有名な「光速で飛んでも手に持った鏡で自分の顔が見える」というものです。まず、光速の半分で飛ぶロケットがあると思ってください。このロケットの中で鏡(進行方向の反対に向かって置かれている)を見るとき、顔からでた光は(<笑える文章ですが)鏡に普通より長い時間をかけて到達するように思えます。そして反射して眼まで戻って見えるようになる(ここでは脳内神経については問わない)。しかし、これはあくまで外部からの観測において、です。相対性理論の中でも有名な効果として速く動く物体では時間の流れが遅れる、というものがあります。そうするとロケットの中では光は普通に前に進み反射して鏡に自分の顔が写る。このことを光速ロケットに応用すると面白いことがわかります。光速ロケットの中では時間の流れが止まっていますから概念上は鏡に自分の姿が写る。しかしそれを観測するものがいないです。止まった時間の中では見えませんから。この、外から見た時間と内部の時間の流れる速度が違う、ということを理解するのが相対性理論のポイントです。なんで遅れるかはさすがにここで説明するのは難しいですね。私も本を読んで理解するのが精一杯です(^-^; 私が光速ロケットでいつも疑問に思うのはさ、「それをどうやって止めるのか?」ということです。だってさ、光速で飛んでたら、時間が止まっちゃってブレーキかける装置が稼動しないじゃん。てか、実際には光速では飛べないんですけどね(笑) 理論上はギリギリまで行けても。

北海道の有珠山が噴火しそうらしいですね。そうえいば有珠山って登ったことがあるな。あの、前に昭和新山がある山だよね?かなり小さいころなのではっきりした記憶がないけど。あ、今小さいときに使っていたスタンプカードを見てみたらありました。そうか、ロープウェーを使って登ったのか。そういえばそんな覚えも。火山って好きですね。白煙、とかじゃなくてもう溶岩をドロドロだしてる山。だから硬性の溶岩が多い日本の火山はあんまり好きじゃなくって(こういう火山は爆発を起こすが溶岩流はあまり作らない)、軟性溶岩のハワイのマウナケア、キラウエアとかイタリアのストロンボリ山、エトナ山とかね。こういうところの噴火の映像を見ると感動します。わくわくします。私の好きな映像ベスト3は1.核爆弾の爆発シーン 2.火山から流れ出る溶岩 3.隕石の衝突シーンです。隕石は想像映像しかないわけだけど。私がアルマゲドンとディープインパクトの両方をみたのは衝突シーンが見たかったからです。ストーリィ全然覚えてません。前に友達とアルマゲドンとディープインパクトどっちが面白いか、という話をしたらごっちゃになってました。てか、エアロスミスが主題歌を歌ってたのってどっちだったっけ?あの曲よかったね。

きのうの日記で「動画は画像と動きの組み合わせで覚えてるんじゃないか?」と言ったけどもうちょい考えてみると画像もそのままじゃなくって線と色、形の組み合わせで覚えているような気がします。それもきっちりとしたものじゃなくて曖昧なイメージで。イメージ。つまり心象。ハナハダココロモトナイ。人の顔を思い出そうとしたとき、耳の形を思い出せます?鼻の穴の大きさが正確にわかります?漠然とした記憶しかない。そういう曖昧なイメージを連なりあわせていって線、画像、ひいては動画を再生することができるようになるんじゃないかなあ。

以下メイトリクス(MATRIX)のネタばれ。

メイトリクスでは意識が浮遊してメイトリクスにアクセスするということになっていたね。でもそうするとなんでメイトリクスとのアクセスが切断されると死ぬことになるのかがわからない。考えられるのは意識の根本は脳にあり、触手のような形でメイトリクスに伸びているという仮定。情報摂取だけの触手なら途中で切れてもそんなにダメージを負わないから死ぬことがないけど、意識するこの意識感覚(空間)がメイトリクスに移動しているとする。しかしそうすると肉体に存在価値がなくなる。メイトリクスの中で意識できるということは脳がある必要がなくなるということでもある。じゃあ「メイトリクスが」脳にアクセスしてるとしたら?多数の脳に同じ空間情報を流し込んでいるという仮定。メイトリクスはその情報の脳での運用を取得し他の脳へ伝える。でもなあ。そうするとなあ。「別に50億人をリンクさせなくても数人でいいんとちゃう??てか同じ数人の人格プログラムに一人ずつアクセスさせたら??てか意識を持たせる必要があるのか????」なんて映画自体を破壊することになっちゃうしね(笑) 意識が脳にあるのは間違いないんだって。だから、メイトリクスにアクセスしている、という仮定ならメイトリクスは脳の情報をコピーして一人で遊んでいるだけになる。接続が断たれればメイトリクスの中での人格は消えるが脳はそのままあるから「現実世界としての意識」(?)が死ぬことはない。だから脳で意識が作られているのをメイトリクスが情報を与えながら読みこんでいるってことだと思う。それならストーリィに無理があっても論理的な矛盾はでい。ただ、その場合でも、現実の脳にそんな多量の情報を流したらショートしないか?とかあるけどね(癲癇は脳神経の異常発火だと言われてますね。そんな状態になるかもしれません)。映画では数時間とかの経験を一瞬で終わらせられるようなシーンがあるけど現実の脳でそんな無茶なことはできないよなあ。ニューロンの発火の伝達速度には限界があるのです。いろいろ矛盾が多いと言われている映画ですけど、こんなところにもあるんです(笑) でも私は好きな映画ですけどね。生まれて初めて二回も映画館に見にいった映画です。面白い。テレビで見るのだったら多分「十戒」か「天地創造」が一番多いと思うけど(笑)

03/29(3)

今日も出かけてて合間を縫ってミスタードーナッツに行きました。ここ数日連続でコーヒーとチョコファッション(連続で行く、ということがすでに強調することではなくなっている(笑))。隣に座っていた中学3年生らしき3人組が携帯電話がほしいって言っていて「今って小学生でも持ってるんだよ。要らないじゃんね~~」なんて会話を聞いてくすっと笑ったりして。新聞に撥水性に優れた摩擦のほぼない膜が開発された、というニュースがきのうの新聞に載っていました。その膜の概念画像も載っていたのですが、それが細かい針がいっぱいあるようなものだったんですね。かなり上下への縮尺を伸ばしてあると思いますけど。その画像を母が見て「あ、私もこの画像見たことある」と言いました。でも、この膜って開発されたばかりだしなあと思って母に「それって魚群探知機の映像じゃない?」と聞くとその通りでした(笑) でも魚群探知機の映像のような、と言えば確かに伝えやすいな。母、意外になかなかやるな。優勝したのは貴闘力なのに新聞もTVの生出演してたのも若乃花か武双山かのどちらかで可哀相ですね(笑) 正しい情報なのかどうかわからないけどハウステンボスが倒産したっていう噂を聞きました。これも減衰系継承でしょうか(笑)

不立文字という言葉があります。教外別伝不立文字直指人心見性成仏。簡単に言えば教わるべきことは文字にはなっていない、という意味(後半は違うことだが)。この考えはすぐに「言葉にはならない」というものになる。「本当に言いたいことは、言葉にはならない」というように。しかしそれでも私はそれを言葉と認定する。行為、行動、態度、なにかしらそういうもので、片側に伝えようという意志がありもう片側にそれを読み取ろうとする意志があったならばそれは言葉になる。実際には伝えようという意志がなくても言葉になりますが。例えば「自然からのメッセージ」なんてのは自然が何か伝えようとしているわけではない。人間がそれを勝手に読み取るのです。それに言葉は音声、文字だけを拠り所にするものではない。立派に手話というものがある。手話を言葉として認められるならアイコンタクトや手の動き、顔の向きなどである程度の意思を伝えるのも言葉として機能すると考えておかしくはない。ボディランゲージなんて立派な言葉まであることですし。そうしたとき「言わないで伝える」という言葉は「言わないことでそれに意味を持たせ伝える」と「口にはせず態度で伝える」の二通りに変化する。後者のは私はとくに面白いと思わないので省きますが(笑)、前者は興味深い。言わないという行動は「言わない」を一つの指標にし意味を齎すのです。昨日言いましたね。言葉を反転させるという片側への言葉の名付けがあると。この「言わない」はマイナスへの言葉の向きを表す。「発話行為」のうちでプラスへのベクトルが「言う」ならば「言わない」はマイナスへ向かって発話することである。言うべきところで言わない行為は相手へのメッセージになる。そのつもりがなくても受信者が言わないという行為を読んだならばメッセージになる。そのときのメッセージ内容はコンテクストに拠るしかないのでかなり曖昧なものになりますが(^-^; ウィトゲンシュタインが「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」と発話したとき、そのメッセージはコンテクストに負うことになり意味が分散したのです。だから誤解が多い。意志の伝達はなにがなんでも言語行為に頼るしかないのです。逆に言えばありとあらゆる行為、行為しないという行為さえ言葉となる。

掲示板に書きこみをしてくださった、スガモンさんのHPに書かれていた「画像記憶処理能力」ですが、このごろちょうどそれについて考えていたんですよね。人間ってのはだいたい、動画ってものを記憶してないんです。なぜならエムペグやリアルオーディオでわかるように容量が大きすぎる。いちいち記憶してたらすぐに満杯になっちゃいます。でも覚えているような気もしますよね。これは私の推測なのであってるかどうか知りませんが、ある程度の画像と動き(ムービング)を記憶しているのではないでしょうか?野球でピッチャーがボールを投げるところを思い出すとき人間の形状とその動きを重ね合わせ記憶から再構成する。多少の曖昧さは残りますがそれだけ動的な記憶で柔軟性に富む、とも言えます。動きだけ重ね合わせればボールを投げているところを見たことがない人の投球シーンでも「思い出す」ことができる(正確には「想像」、「思い起こす」、など。場合によっては妄想(笑))。これによってかなり情報量を節約することができる。ビデオで取ると、この映像には必ず「背景」が写ります。ところが記憶には背景は写らない。無駄だから削ぎ落としてあるんです。必要な部分だけ摂取して残すことができる。違うかな。

あしたは昼過ぎからちょっとだけ用事。基本的には家にいるかな。

03/29(2)

そうそう、そういえばきのうかおとといチャットしてたときに今BON JOVIを聞いていると言ったら今年アルバムが出そうという情報をもらいました。んでもって今日小耳に挟んだ(これもメタファー)話だけど、BON JOVI、今年カウントダウンライブ日本でやるかもしれないんだって。それで東京ドームはジャニーズが押さえちゃってるから(ジャニーズの前はあのバンド)もしかしたら大阪ドームでやるかも、ということらしいです。あ、こういうのを裏情報って言うのかな(笑) 聞かなかったことにしてください(笑) 本当にあるんだったら見にいきたいなあ。洋楽、とくにロックを聴くと日本と世界の差を思い知らされるね。私は音楽詳しいわけじゃないし、本当に芸術に関してはトンチンカンなんだけどそれでも洋楽のロックを聴くとその重厚さに圧倒される。普段は日本ので満足してるんだけどねえ。ただ、単純に日本の音楽が劣っているってわけじゃなくって集合論的に世界はそれだけ広いわけだからね。邦楽も洋楽の一分野。でもねえ、こういっちゃなんだけどそれでも日本の音楽は平均的レベル、世界よりも下だと思うな。今のところ。やっぱ私は日本人で日本語の歌詞が馴染むわけだしレベルが上がってくれると嬉しい。この前たまたま聴く機会のあったthe pillowsって日本のバンドはけっこうかっこいいと思ったけど。ミッシェルとかそういうものもあるんだけどさ、平均的にって話さ。

昨日の夜にネットで見つけた問題が解けなくて困ってます。「天国と地獄への門があってそれぞれに嘘つき鬼と正直鬼が立っています。どちらかに一回だけ質問して天国への道を見つけてください」(正確な文は忘れたけどこれでだいじょうぶなはず)ってやつ。二回ならわかるんだけど一回ってのがなあ。けっこう前に同じような問題をチャット中に出題されて悪戦苦闘した覚えがあるが。とりあえず一回でなんとかしなくては。一回で言い当てるためには天国ならば嘘つきも正直者も同じ答になり、地獄ならば二人とも逆のことを答える質問を考えなくちゃならない。あ~どうすればいいんだろ。ミスドでノートに表書いて考えたんだけどわかりませんでした。こういう問題って考えるのは好きだけどめったに自分で解けません。例えば嘘つきのパラドクスと言えばスマリヤンだよね、とかそういう外殻の知識だけあるの(笑) 一応自分でも考えるんだけどね。ルービックキューブも人の手を借りたしなあ。その前にやったパズルは自分で解けたからすっごく嬉しかったけど。スマリヤンって検索したら今までに読んだ本を紹介するページに当たって、そこに茂木健一郎「脳とクオリア」ってありました(笑) 心脳問題ももしかしたら嘘つきのパラドクスかもしれないしね。「心がある」という解答は出ないような問題設定になっているのかもしれない。あ、こんなこと言ってもいいのかな(笑) きのうの夕刊をちょっと調べもので見直したら養老先生の本が紹介されていて、そこに茂木さんも一緒に書いてるみたいだったし(笑) あ、編集に竹内薫だってさ。うーん。読みたい。しかしまだ読んでない本があるし、そっちの方が今は興味が向いているのだ。

人は言葉の起源について語ろうとするとき、どこか体の芯が熱くなる。-瀬戸賢一-

03/29(1)

そろそろこのページ、40kb近くなってきましたがわざとらしくログを作りません(笑) 今日の名古屋は大雨。雷鳴がときたま聞こえてきますが嫌いじゃないです。音も、稲妻も。今でも雷がなると窓際でわくわくして眺めてしまいます。そういえば去年の夏に東京に行ったときは大雨で、駅で友達を待ってる間濡れるのも気にしないで雷を見てたな。写真に撮った記憶があるんだけど見つからなかった。バイクで出かけてたのですが気持ち良さそうなのでヘルメットをかぶらず走ってきました。びちょびちょ。水がしたたたっていまぷ。舌足らずになっています。夜、ミスタードーナッツに行ったのですが昼食はマクドナルドだったのでとっても快適な食生活です。ラジオで今また「開国」が流れてます(笑) ルービックキューブをしている、と友達に話したときにあるゲームがほしいと話したのですが名前が二人とも浮かんできませんでした。でもきのうルービックキューブのサイトを見て回っていたときにそのゲームを見つけました。名前は「ルービックマジック」というらしいです。知ってる人は多いと思う。どんなものかは検索でもして探してください。てか誰かください。代わりにルービックキューブあげます。おまけに二つくらい簡単なパズルを付けます。

HPを消すときに「消す」と言いますが「消す」は二回連続で使えない言葉ですよね。「HPを消して、その後消した」とは言えない。「HPを消してその後復活させた」とは言えても。この場合「消す」と「復活させる」が対語になっています。両方向の片側に一つの名前を付けている。これに対して一語で状態を表して両方向ともに使える言葉もある。例えば(そこまで良い例じゃないけど)「色を反転させる」とかね。白を反転させれば黒だし黒を反転させれば白になる。「反対」にしているわけです(これが良い例ではない理由でもある)。数字で言うと-1をかけるようなものかな。何回かけても-になるか+になるかしか変わらない。人間は認識に言葉しか使わない。もう少し正確に言えば「言葉らしきもの」しか使わない。世界は論理によって構築されているがその世界の論理性を見抜くのは人間のみ。いや、人間の認識こそが論理性を生み出している。Aという事象とBという事象は認識以前の空間(?)においては関連というものはないが人間は事実を言葉に変換し関連性を見出す。なにが真実でなにが虚像なのか。それは認識形態による。認識形態が違えば見え方もまた違うのです。心理学のタームで背景効果というものがありますが、人間はその論理性において背景から事実を抽出している。すべて、ということはありえない。人間はnmの物体を感知しないがそれは虚像ではない。赤色は赤色ではない。4次元は事実であり虚像である。一体誰が虚時間というものを想像できる?それは上っ面の言葉でしかない。対象はただ言葉のみでありメタ言語として働くがその言葉は実在を明示しない。定義と言うものはときに人間の思考を妨害する。完全な嘘つきが存在し得ないように。完全な対称性があり得ないように。騙されてはいけない!!「完全な」という言葉があり得ない!!私は事実を語らない。ただ思惟のみを語る。

このごろ、メイルがとっても少ないのでたまに大きいメイルがくると受信中に、あ、ウィークリィmag2だな、とわかってしまいます(笑) 今日のウィークリィmag2に面白いことが載っていました。

○「コンコルドは音より速いから後ろの席は喋り声とか音がたまってうるさいんだ。だから運賃は前の席が一番高くて、後ろへいくにしたがってだんだん安くなるんだ。」と高校の時、物理の先生にいわれ、つい最近まで信じてました。

これ、ちゃんと説明できますかね?私は相対性理論のほうが慣れてるもんでついそのまま音速で飛ぶように感じてしまうのですが(笑)、ああ、言い方が悪いかな。光速で運行中のロケットから前に光を放つとロケットの乗務員からはちゃんと前に光速で光が飛んでいくように見えます。だけど外部からロケットを観測すると光は前に飛んでいません。詳しく説明すると長くなるので省きますが(笑)、そういうもんなのです(笑) 飛行機の場合は中の空気も音速で動いているのでちゃんと音も前に進んでこういう現象は起きません。光速ロケットは絶対空間(エーテルのようなものを仮定するならば、ですが)が置いてけぼりですからね。よく小学生のころ言いませんでしたか?「赤道直下で東に走ると速く走れる」なんて。同じ理由ですネ。知ってる人も多いと思いますが北半球の国の宇宙基地がなるべく南のほうに作られるのも同じ理由からです。そういえば今更ながらお節介をするなら重力圏離脱速度はマッハ7くらい。ロケットは初期放出の速度だけで飛んでいくわけじゃないです。だからスペースシャトルなんかマッハ4とか。Gも数Gしかかからない。宇宙での作業を除けば素人でも問題なくいけます。しかしこのスピードも大局的にはローカルなスピードでしかなくって、地球は太陽の回りを11万km/hで運行すると言う運動をとっているわけだし、太陽系もヘラクレス座方向に7万km/hで動いていてそれが乙女座銀河団に向かって、、、、となるともうわけわからん(笑) ようはどこに中心を据えるかの違い。地球を中心にしたって天体運行図は書ける。それが問題になるときに書きなおせば良いだけです。1000年後には太陽が中心の星間図ではなく銀河系の中心を中心に据えた図になっているかもしれません。ああ、良い例を思い出しましたネ。世界地図だって日本のは統計135度が中心になってますし南半球の地図は南北が私達が普段見る世界地図と逆さまですね。これも同じ理由からです。そうした方がわかりやすい。ところで、地球って太陽の回りを右回りで回ってるか左回りで回ってるかわかります?

03/28

人間が無限大、無限小を想像することができるのはもちろん記号の働きがあるから。日本の数単位は一、十、百、千、万、億、兆、京、垓、禾予(漢字がない)、穰、溝、澗、正、載、極、恒河沙、阿僧祇、那由他、不可思議、無量、大数まであって、千大数だと10^75になる。面白いのは「不可思議」という単位で、これは「思惟できる限界」という意味なんだよね(ほんとはそんな数字想像できない)。しかしそれでも10^75と簡単に書いてしまうことができる。宇宙全体にある星の数なんて10^22くらいだし10^75はとっくに宇宙中の原子の数を超えてしまっている。それどころか(10^100)^100なんて表す対象のない記号まで考えることができる。そのメタファーを超えて「無限大」という言葉ができあがる。この言葉を正確につかもうとするとわけがわからなくなる。(10^100)^100でさえ小さくて、それをxと書いたとき(x^100)^100でも足りなくてそれをyにして、、、、としていっても追いつけない。それをぽんと「無限大ね、あ、そう」と言えてしまう。すごいね。びっくりだ(笑) 無限と言う言葉がないといいのかもしれない。そうすれば論理が破綻しなくて済む。無限が現れる局面は数少ないし、現れるときは必ず人間の恣意性が介入しているときだ。その無限を解答として出すのではなく問題自体を消去してしまえ。

ところで最近ネット内外で「萌える」という言葉を聞きますが意味がまだちょっとわからないです。誰か教えてください。てか、誉め言葉なの?貶してるの?謎だ。

ちょっと調べたいことがあって、検索したんだけどそこでたまたま面白いことを見たんだよね。なにかってぇと、HP上に「ICQ持ってるから、ナンバ知りたい人はメイルください」って書いてあって、その後に「因みに今は~~」ってICQのオンライン状況がわかるような画像が貼ってあるわけさ。みたことあるでしょ?こんなやつ。それでさ、それってプロパティで画像のアドレス見たらナンバすぐわかるじゃん!!っての(笑) おおぼけやなぁ。昨日は出かけたついでにコンビニでちょっとジャンプを立ち読みしたけど面白いのはヒカルの碁くらいかな。一応他のも面白いけど。これは、となるとね。

ルービックキューブは解説ページを見るという反則技で完成しました(笑)


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