Thursday, March 23, 2000

ログ20('00 03/22~03/27)

03/27(4)

前から何度も言ってることだけど、私は保守的な考えが大嫌い。人前で化粧するなとか髪を染めるなとか日本語を大事にしようとか。ああ、特に人前で化粧するなって言う奴ね。なんでそういうどうでもいいことにこだわるのかが理解できない。もちろん国旗を尊敬しようってのもね。私は日本に住んでるから日本人なのであってそれ以外で日本人なわけじゃないし、日本人であることを誇りに思おうとは思わない。日本は他の国より自国を大切に思う観念が欠けてるから住みやすいんだけどね(笑) 無選択な帰属で決められちゃかなわん。ついでにさ、日本語ってあんまり優れた言葉じゃないんだよね。主語とか目的語がすぐに欠けるでしょ?それはつまりそれだけ伝達内容をコンテクストに負っているということで共有する部分が多くないといけない言語なんだ。「好きです」じゃあ誰が何を好きなのかわかりゃしねえ。ただ、情報量的にはコードに意味を依存させて少量の言葉で伝えようとしているとも言えるからその意味では優れているとも言えないことはないんだけど。それが使えるのはコードを共有した母体(共有されたコードが一つの社会でのラング)の中でだけであって外部に向かっては訴求力が弱い。勘違いも増えるしね。他の言葉、私は英語くらいしかわからないけど、、、、だと文法をまず固めることによって正確に伝えようとする。その場合はコードが決まっていることによって多少曖昧なニュアンスを伝えられなくなっちゃうんだけど。といってもそこまでガチガチなわけじゃないからもちろん想像性は多分に残ってるんだけどね。日本語は言いたいことを伝えようとするとき微妙なエッセンスを加えなくちゃならない。見た目一緒でももうちょっと深い意味があるなんてことはしょっちゅうだからね。
1.「私は君が好きだ」 普通に好きだと言うことを伝えようとしている。深層では他の誰かじゃなくて君のことが、ということを強調しているともいえる。
2.「私が君を好きだ」 誰か他人が好きなんじゃなくってこの私が君のことを好きなんだ、ということを言い表そうとしている。
3.「私は君が好きだ」 後ろに(君が私を好きじゃなくても)と続いていると推測することも可能な言いまわし。
ただしこの文で強調可能なのは「私」と「君」の関連部分であって「好きだ」ということを変化させることはできない。なぜならこの分の置かれた初期理由が「好き」という語にありここを入れ替えると意味がなくなってしまうからね。例えば「私は今日出かけた」という文は「彼は今日出かけた」とも「私は昨日出かけた」ともできるが「私は今日夢を見た」にはできない。「私は君が好きだ」という連辞において私、は、君、が、好き、だ、という各語に対応する連合は数限りなくあるけどその中でも「私は君が好きだ」の中では「好きだ」が主題に置かれているのであるのだよ。そういう構造を理解したならば面と向かった相手に一言「好きだ」と言っても相手に「誰が?誰を?(または、何が?何を?)」と聞かれることはない。そうやって一言一言に、どんな意味を持つか、どう受けとめられる可能性があるか、などと考えていると発言がどんどん遅れていきます(笑) 私は話すのが遅い。話すのが苦手だからね。

03/27(3)

何を望んでいる?何も。リミット0。タイムアフタータイム。スウィングソウスロゥリィ。明るい夜空が、、照らしはじめ輪郭はマドロミのなかへ。空白。予測はいつでも遅延してル。だから、、、、この赤さ。立ちつくすことしかできなくて。(日記)

痛みがほしい。痛みを望んでる。痛覚だ。もっと、もっと。胸が詰まるような痛み。存在を自立させろ。胎動。痛い痛い痛いよう。自覚していても起きあがる蟲。僕は痛みを感じているのか?痛くてもその痛みはどこかよそよそしくて。存在がずれていル。突き刺さった場所から僕は5mmだけ違う場所にいる。だから5mm刺さっても僕は均一化しない。それ以上じゃないと僕は一人になれない。僕じゃない僕。1mm、、2mm、、ぐく。滲んでくるだけ。流れ落ちる血も数分後には止まる。滲んでくるのは惨めさでもあるのかもしれない。泣いてしまいそうだ。痛みは涙を誘わない。僕はなぜ突き刺している?理由はない。僕が僕であるために。嘘だ。體がなくなる地点。感覚が浮遊しそれを受けとめるのは身体じゃない。望まないでくれ。これは僕じゃない。僕は、、いない。それでも、、、、いいのか。磨耗する心。開けない、、。僕w,Nv?・凍・Df"・Bl?・・Al?・・Av!B随?・・準・・Hn"蛟・Rk?・楳・B香"・・Ao&127B僕w5・・・楳♀助tり素g!Bn"摩凍・・Rk?・楳・・・楳・駐・・・・楳÷・Bo?・・A僕w!A、あゆ?・凍・Bo?・・・・・縲・烙楳÷・・B句?・・・An"蛟・熹lw5・・・・凍・・・楳・B君り仁q"逐÷・・・B喧2Iり・h"・・・・・jNv求水。・?・逐・・A、、、always。

03/27(2)

キミガヒラククチハボクノセキズイヲハカイシツクスダロウ。シンジツヨリモキレイナウソヲサカセテ。ボ、クハ、、ナ、イテ、、タ?キミ-ハ、ナイ、テナイ。ボク、、ノスベテ。コウサクスルセカイノハシデトウサクシタセカイノナカヲ。キミノクチヲフサイデシマオウ。キミノミミヲフサイデシマオウ。キミノヒトミヲフサイデシマオウ。キミノ、キミノ、キミノ、キミノ。

03/27(1)

消すのって快感じゃない?キモチイイ。なんにしたって。プログラムもフォルダもHPも人も。HPサーバにアップしてある数Mbの画像を一気にデリートするときの心地良さ。ガスっとね。時間がかかりすぎちゃだめ。サクっと。ブルブルっとくるね。今まで時間をかけたのを瞬殺しちゃうわけじゃない?いいよね、水泡に帰すってやつ?諺の言いたいことと違うけどさ。諺ってのはなんであるんだろうね。「いそがば回れ」っていうのがあるジャン?言いたいのは「急いでるときでも慎重にやった方がけっきょくは早くできるんだよ」ってことなわけ。でも現代語訳なら「急いでるなら遠回りしなさい」ってことだよね。つまりは矛盾してる。その矛盾を回避しようとこの矛盾でどういうことを言おうとしているのか、という受信者の解読意思が介在するときに「どんなときも慎重を期しなさい」という意味が浮かび上がるんだよね。それはわかるんだけど、でもどうして最初から「急いでるときでも慎重にやった方がけっきょくは早くできる」と言わないのかがわからない。もったいぶった言い回しで文脈を混乱させているだけじゃないのか?諺ではなく訓告じゃいけないのか?諺ってのはそういう論理性を無視した言葉だからよく言われるように「二度あることは三度ある」と「三度目の正直」のような矛盾したものがでてくる。ついでに論理性だけを問うならば「二度あった」という事実を根拠にしているぶん「二度あることは三度ある」の方に分がある。

「部落差別」ってあるじゃない?(半疑問形) なんだっけ。たしか「同和問題」だったっけ?あれってなんで差別受けてるの?僕知らないけど。ていうかあれってみんな知ってるものなの?わかんねえなあ。なんかさ、みんなで部落差別について考えてみよう♪なんてして知ってるやつを増やすよりもこのまま放っておいたらそのまま消えるんじゃなかろうか。なんてのは楽観的なのかな。とりあえず人種差別やエイズ患者に対する差別に比べたら知ってる奴や気にする奴って少ないんじゃないかな。統計取ったわけじゃないけどさ。だから気軽に言っちゃいけないのかもしれないけど。今どきそんなアナクロなこと考えてる人間もどうかと思うけどな。たぶん脳味噌が足りないんだろうね。

03/26(3)

ちょっと人生についてどうしたもんかなあと思い悩んでいたもので(嘘)、久しぶりにサーフィンをしてみました(後半の文章が前半を受けてない(いや、深読みすればできなくはないけど(こう書くのはつまり本当に考えずに書いた証拠(と、言えなくもない(終わらない夏)))))。そうしたところリンクが張ってあるHPを見つけてしまっておっかなびっくり、です。誰とは言わないけどわざわざありがとう。私はこういうときが大好き。リンクは許可を求められたり張った後に報告されるよりも勝手に張っておいてくれて、偶然見つけたときの方が100倍嬉しいです。5時に彼から電話がかかってきました。退院できたそうで。複雑な気分です。彼が退院するのがいやなわけじゃない。喜ばしいことです。私はその言葉が上滑りしてるのが自分で感じられていやだ。正直に言えば、無感動。はっきりいっちゃえば「リンクを張ってくれてるのを見つける」のはどうでもいいことで、友人が退院することのほうが大事なことなはずなのにそれを肌で感じられない、嬉しいと実感する自分が不在なことをちょっと悩んだりする。以前よりはだんだん情動豊かになってきましたが。マンガなんかだと今まで無表情だった登場人物が少しずつ仲間に打ち解けていくような感動的なシーン。私に感動した?(笑) さてさて、そんな戯言はどうでもいいんだけどもうちょっと地に足をつけなきゃなあと思う今日このごろでした。太字で書いたところがメタファーと呼ばれるものです。ところで「今日」も「today」も「こんにち」とすることができる(日英語の同一性)のはメタファーの謎を解く鍵の一つです。

03/26(2)

このごろふと気が付くと口には出していないが頭の中で僕は狂ってない僕は狂ってないと復唱している自分がいる。事実、たぶん僕は狂っていない。正常な精神を持ち合わせている。人を刺したって正当に法に照らし合わせて処罰されるだろう。なのに頭の中で蟲が蠢く。脳髄を掻き毟りたい。痒いよう。助けてよう。それはいいんだけど(転換(癲癇?))、なぁんかの事件の判決で、あ、思い出した。過労で自殺しちゃった人の奥さんが企業を訴えた裁判。で(読みにくい?先考えて書いてませんから(笑))、労災の取り決めでは自分で就労できなくなる事態に向かったときは保険(って言うのかな?)は下りないんだって。でも判決では「自殺を抑制することができない状態になるほど精神的にダメージを負っていた」ということらしい。細かい文章は忘れちゃったけど裁判所の考えでは「自殺を思い留まることができないような精神状態での自殺」と「自殺しないこともできたがしてしまった自殺」をわけて考えているらしい。後者ってかなりわかりにくい。前者のは一般的(?)な錯乱による自殺と考えていいだろう(そしてその理由が過労なら過労死なんだろう)。でも、後者のは判断できる状態においてした自殺ということだ。この境界ってどこにあるんだろうか?こういった境界というのはあまねく曖昧なものであるけど、これにはその曖昧な境界さえないのではないだろうか。自殺をしようとしている時点でその先にあるものが死だということがわかっているということだし、自殺してしまったのなら思い留まることはできなかったということだ。僕が今自殺したら理由は何になるんだろうか?そう思われるだろう、という理由は幾つか思い当たらないことはないがたぶんそれらで自殺することはない。ただなんとなく、で自殺することはあり得るしそれを思い留まることができないということもあり得る。僕自身ただなんとなくで死んでみようかと思うこともある。それを思い留まるのは他人にこれこれこんな理由でと勝手な解釈をされたくないからだ。実際にただなんとなくで人を殺すことだってあり得るだろう。そうしたとき僕らは、僕らじゃなかったら僕は、、、、そうして殺した人にやはり精神病の名を授けるのだろう。ただなんとなくで人を殺そうと思ってしまったという理由で。でもそうすると僕はただなんとなくで自殺してみようかと思うことがあるわけで、なら僕も精神病なのだろうかと考えてみたりもする。だけど僕は自己をできる限りの客観で見ようと心がけて正視してみるが多少不安定な部分はありつつもやはり狂ってはいないと思う。その両者を「実行」したか否かで分割することもできなくはないが、実行するかどうかなんて些細なことでしかない。ビルの屋上に立ったとき足を踏み出すかどうかなんてちょっとした違いだ。やっぱり、そんなラインなんてないのだろうと思う。、、、、ごめんなさい、気ぃ抜いた文章でほんとうはどうでもいいことなんだけど無理矢理捻くり回して書きました(笑)、と言えたらいいのに。which?

03/26(1)

宇宙デジタル図鑑の間違いでした。名前なんて気にしちゃいけません(言い訳)。時間があったので辞書を読もうとしたんだけど、いつも読んでるのはつまらないなと思ったので外国地名事典を読むことにしました。辞典なんかは国語、古語、漢和、英和、仏和、人名、諺、地名、式辞挨拶(これだけ系統が違うな)を持ってるけど断然地名事典を使うことが少ない。でも30分くらい眺めたけど、紹介するほどおもしろいことは見つけられませんでした(個人的にはおもしろかったけどね)。

宇宙デジタル図鑑は宇宙の年齢についてとかで、もしかして佐藤勝彦教授が出てくるかな、と思ったら予想通り出てきました(笑) 宇宙年齢についてなら確実にインフレーション理論に触れることになるし、そうなら理論の創始者の佐藤教授は出てきても不思議じゃないからね。僕がいつも宇宙の歴史の話を聞くときにすごく変な感覚に襲われるのは「インフレーション以前」のときが語られているとき。ビッグバン以前はインフレーションによって説明され(昔教皇がビッグバン以前を調べるのはやめなさいとホーキング博士に言いましたね)、インフレーション以前は「揺らぎ」によって説明される。ナレータや他番組、紹介本ではその揺らぎは永遠にあるとか言われるけど、揺らぎは宇宙創始以前だから時間も空間もないわけだ。人間はそれを想像するとき必ず空間軸と時間軸を想定して語ったり考えたりするけどそれは宇宙が始まった後にしか通用しない語り口ではないか。地球の大きさが広いと思う僕は太陽系の大きさに驚愕し銀河の途方もなさに眩暈を起こし超銀河団の言葉は理解及ばぬところにある。10年前を昔と言い江戸時代が遠い過去のことなのに人類が生まれたのは10万年前で恐竜が数億年前?どうやって宇宙創始の100億年前を想像するんだろう。そしてそれさえもが0と化してしまうような無限空間。いや、空間じゃなかったんだな。狂ってしまいそうだが、人間の脳はメタ的に思考し永遠を数値化する能力を得ているから僅か狂わないですむ。僕はまだ狂ってない。

03/25

用事は9時くらいに終えて、帰りにミスタードーナッツに寄ったけど鞄がいつものと違ったので本が入ってなかった。ということですることがないのでコーヒーを2杯ほど飲んですぐにでました。夕方に電話で起床。本を読みながら土曜日を過ごす。夕食時にTVをつけたらNHKで方言の番組をやっていたので面白いかな、と思ったら私の嫌いな伝統系番組だったので即消し。私は伝統を重んじるという行為が何よりも嫌いです。学校を休まないと皆勤賞ってもらえるじゃないですか。伝統なんてそんなものです。それに価値があると思うかどうかはひとそれぞれなんですけどね。継続は力なり、なんてことわざは一生に一回も使いたくないです。さ、いったん部屋にきましたがこれから教育TVでサイエンスアイを見なければ(部屋にTVはない)。毎月最終土曜日はデジタル宇宙図鑑を放映するのです。

きのうの日記は夕方に書いたんだけどプロバイダの作業でFTPが使えなくてアップできなかった。

03/24(2)

ちょっとだけ追記。下で書いた番組だけどもう一つだけ面白い話があったね。ICBMを防ぐ方法として、「放射能の帯」というのがあるんだってさ。バンアレン帯とかじゃないよ。国土の高層に原爆を打ち上げて放射能の層を作るんだって。詳しいことは言ってなかったけど地上数100kmとかなら地上まで放射能は降ってこないのかな。で、そうするとICBMが飛んできたときにその帯の中を通ることになって、そのときに放射能で中のプルトニウムが変質して不発弾になってしまうらしい。すっげ~~(笑) 番組では、1年間に1000発とか打ち上げないといけないから政治判断で無理になったと言っていたから、原理上はできる、ということなのかな。いや、マジで感服しました。今日はこれから外出。あしたの昼には帰ってくるかな。

03/24(1)

ふ~~。おもしろかった。あ、「核の時代」ではなくて「世紀を超えて」というシリーズ物の中で核兵器を扱ったときのものでした。最初映像を見たとき、あ、これ見たことあるんちゃう?と思ったけど初めてでした。核のことをやるときは大体見てるから映像がかぶる(笑) 一番面白かったのは爆縮レンズの話かな。この仕組みがすっごいんだ。原爆ってのは基本的にプルトニウムを圧縮して核分裂を起こすんだけど、それを回りから均一に力を加えないといけないんだって。で、均一に圧力を加えるためにプルトニウムを囲む火薬を2種類に分けて、外殻の火薬を爆発させてそうして内側の火薬を誘爆させることによって力の伝達速度を2段階にしてプルトニウムを包み込むように圧縮するんですね。その火薬の配置のことを爆縮レンズというらしいです。んでもってすごいのがその配置を考え出したのがあのフォン・ノイマンで、起爆装置の最適な数、32を計算したらしい。すごいよね!!32って決められてるんだよ!!そうしないと起爆しない。もう一つ面白かったのは純粋水爆の話。水爆ってのはご存知の通り核融合反応を起こすために原爆を使っているわけだけど、核融合をレーザや磁力で起こすことができるようになれば原爆を使わなくても済むようになるらしい。そうすれば放射能を出さないクリーン核兵器になる。、、、、どうしましょ(笑) こういう番組って政治判断とかがメインになりがちなんだけどこの意外と核兵器の構造とか爆発の模様とか科学的なネタが多くてよかったね。テーマソングのアディエマスの曲がすごくいいね。ああいう曲大好きです。

03/23(3)

珍しく父親の部屋に入ったら壁に標準体重とかがわかる表が貼ってありました。そういえばこのごろ夜によく出歩いてると思ったらあれはダイエットだったんだ。てっきり徘徊してるんだと思ってましたが。深夜にする詩の集いは?なんてなぞなぞはわかりやすすぎるかな?父は身長が180cm近いが太ってもいるからなあ。んでそこに書いてあった式が以下のもの。

BMI : 現在体重(kg)÷身長(m)2
標準体重 : 身長(m)2×22
肥満度(%) : {(現在体重÷標準体重)-1}×100

 

  痩せ過ぎ
普通
多少肥満
肥満

BMI
20以下
20~24
24~26.5
26.5以上

肥満度(%)
-10以下
-10~+10
+10~+20
+20以上


私はBMIが16.3で肥満度が-26%です(笑) つまり、現在の1/3増やせと?ひゃひゃひゃひゃ。できるかっちゅうねん!!私は母親には似てるところが多いんだけど父親にはあんまり似てないんだよね。兄弟(姉+兄)全員母親似。母も痩せてるしねえ。

週末の予定は多少狂って隙間が空いたみたい。

えっとね、きのうのへのへのへも字問題だけど、明星問題との類推で考えるのはどうかなって思う。明星問題ってのは、金星には「明けの明星」と「宵の明星」の二つの呼び名があるけどそれは同じものか違うものか?っていう問題ね。で、まずそれには「金星」という実体があってそれに「夜」とか「朝」というインデックスを導入する。そうしたときに金星に対して外延的に情報が付加され、明けの明星には「朝」と言う情報が内包されるわけ。「へ」の場合はまず「he」という音声記号を措定してその表示としてかたかなとひらがなの2種類が作られる。どんなときにひらがなが使われるかってのは規則の問題だからここでは触れない。これでかなり明確になるんだけど金星の場合と違うのは必ずしも発音としての「he」が実体としての地位を確保しているわけじゃなくって場合によってはひらがなの「へ」が実体になって音声としての「he」は属性になりかたかなが単なる表現は類似してても別記号、ということにもなりうるところかな。音声としての実体は「he」だし文法上は「へ」だったり「ヘ」だったりと価値が錯綜していてその価値同士が相対的なのでちょっとわかりにくいんだけど、それぞれの導入項を出していけばわかるんじゃないかな。例えば日本語表記として、音声として、細かくは単語の中での使い方として、文の中で、などなど。僕はノートに書き出してそれらを区別することができた。だから、わざわざここには書かないけど、興味があったらやってみてください。かたかなの「へ」とひらがなの「ヘ」が区別できるようになると思うよ。ってできないやつなんていないか(笑) まさか「へとヘ」の違いでモンタギュー文法まで持ち出すことになるとは思わなかったな(笑) モンタギュー文法の基礎には「様相論理学」があるんだけどこれの発展にはソール・A・クリプキが関わってるね。

コノテーションの話は語用論と密接な関係がある。昨日の「バカ」で言うと、バカにしようと思って「バカ」というときもあれば可愛さも込めて「バカ」と言うときもある。だから語だけの意味を取るんじゃなくってその語が発せられた文脈、発話者(の性格)まで考慮しないと意味はつかめない。こういうのが語用論。語だけではなく、誰がそれをどんなときに言ったのか、ということまで関数に加えないといけない。もちろんノイズが多くってなかなか論理の構築は難しいんだけどね。さ、そろそろNHKで核の時代の再放送の時間だ。楽しみだね。

03/23(2)

I can't stop loving you
Stop my tears
Stop my loving
Kill my memories (Silent Jelousy ; YOSHIKI)

鏡を見ながら笑顔の練習。どうも引き攣ってしまってうまくできない。思考はスピードを上げて意識が追いつかない。考えていることはあるのにそれが何かを知ろうとするとすでにそれは残骸。今、俺は何を考えているのか。どうしようとしているのか。先端から降ってきた指令に従い無抵抗で行動する。キルマシーン。スティルマシーン。コウズマシーン。主体であることの放棄。客体であることの放棄。環境に支配され雁字搦めの牢の中で私の脳は心を夢見る。概念を措定するな。言葉を措定するな。見られた状態に垣間見られる意味は気が付けば消え失せて。泣きたいのに、泣くことはできない。僕は、僕の全部は、just kill me, you just kill me

(15分後)うーん、5分とは言わないけどマジでころころとアッパーになったりダウナ入ったりと精神状況が入れ替わってます。あ、いまアッパーね(笑) 平均したらミドルになるんじゃないかと思うけどそんなわけにもいかないしねぇ。夢のナイスミドル。ナイスミドルって和製英語っぽいなと思って広辞苑で引いたら載ってなくって代わりに「内水面漁業」が見つかりました。河川湖沼で行なう漁業だそうです。河川湖沼って言われると華仙姑を思い浮かべるけど関係ないな(当たり前だ)。14時半から教育番組で恒星についてやっていたのでつい見てしまった。天文学はもちろん好きなんだけど実は星雲や銀河の写真を見るよりも星雲のできるメカニズムとか銀河が集まってできる超銀河団の話とかの方が好きです。「の方が」って「野放図」と似てるね(関係ない)。名古屋は今日少し雨が降っています。夕方から降り始めました。夕方を暗い雲が覆いパラパラと降る雨は物悲しい。冷たい風が吹いててね。少し暖かくなってる季節だからいいけどこれが冬だったら泣いちゃうくらいの情感だね(笑) 今日の飲み物はBlendyのカプチーノ(ペットボトル)。家の近くのコンビニで売ってるコーヒーのペットボトルはこれだけだからね。ここに書くようなネタはいろいろあるけどどうもそんな気力がない。週末は忙しくって更新できないかも。

03/23(1)

5分周期の衝動に苛まされながら。キリキリキリキリ。キリキリキリキリ。裏側に充填された言葉を丸めて口に詰め込んで蓋をして。スリリングなゲームだって!?もう充分。決まってる。こんな言い方でしか話すことのできない、、。

1時間かけてもこれだけしか書けないね。

03/22(3)

ただいま。ちょっと早めに帰宅。今日の新聞の投書欄にまた椙山大の加藤教授の投書が載っていましたね(笑) 英語と日本語がどうたらこうたらってことについてだけど金曜日の夕刊に自前のコラム書いてるんだからそこに書けばいいのに(笑) 相変わらず保守一辺倒の面白味のない文章だ。このままだんまりもなんなのでまたメイルでも送っておきましょうか。それともひさびさに会いにいくか。でもそんな気力もないしな。やっぱうっちゃっておこう。ん~~。きのうの日記かおとといの日記で書いたマルティネの二重分節は簡単に言えばSyntaxで考えたときの言語の創造性かな。逆から見ると音素(数十種類)と音素から成り立つ語(数十万~数百万種類)は有限だけどその語結合(組み合せ)は無限だ、ということね。そりゃ最初から文章は長さが決まっていないからね(笑) 言語の創造性は規則に支配された創造性だけど創造するための規則だとも言える。

「無色の緑色の観念はすさまじく眠る」
「私はチョコレートが好きくない」 ノアム・チョムスキー

誰かの文章と似てますが気にしないように(笑) チョムスキーは言語の創造性を鋭く指摘した人で、初めての文を理解できる、ということに驚いた人なんだね。「今日はいい天気ですね」という文は今までに何回となく言われてきてる(聞かされてきてる)だろうから理解されても(できても)不思議じゃないけど「私は今日風が強い街中を伏し目がちに歩いていた」という文章はあったかもしれないけど初めて聞く文章だという可能性は高いはず。にも関わらず理解されうる。これはいったいどういうことか?と、まあこんなことを考えた人。私はこれを知ったときに一人名前が浮かんだ人がいるんですね。それがあのソール・A・クリプキ。彼は、規則に従うとはいかなることか、と考えるわけです。そして「1+1=2が証明されても2+2=4になる保証はない」と言い放った。つまり計算においては一回ずつ証明されなくてはならないと考えた。多少交錯するけどチョムスキーはそれを1+1=2は聞いたことがあるからわかるけどなぜそれが2+2に応用できるのだ、と言ってるんですね。ゲーデルの不完全性定理とウィトゲンシュタインの語り得ぬものの関係に似ている、、、、なんて言ったら言い過ぎかな(笑) あ、これは完全オリジナルな思いつきなので勝手に使わないでください(笑)

「へ」と「ヘ」の違いってわかる?前者がひらがなの「へ」で後者がかたかなの「ヘ」です。これは同じものなのでしょうか?それとも違うものですか?「やさしい恋人へ僕から」と書いたとき「へ」は普通ひらがなだけどこれはかたかなで書かれていたとしても変だなと思う人はいないよね。だって気がつかないんだもん。でもこれが「僕は秋子に借りガある」だと、なんで「ガ」なの?と思ってしまう。普通そこじゃかたかなは使わない。「へリコプター」と書かれていたときにこの「へ」はひらがななんです、という言説は意味を持たない。逆に言えば、僕らはなぜ「ここへきてください」というときその「へ」がひらがなの「へ」だと思うのか。もっと言えば「べ」と「ベ」で濁点はひらがなだけど「へ」はかたかなだとかまたはその逆だとか言えないのか。文法上ひらがなで書くものだと決められていると「仮定」してもそれによって読めなくなる人がいないのになぜひらがなだと定められなくてはいけないのか。うーむ。本当はイーミックとエティックの違いを話すつもりだったのに自分でもわからなくなってきたぞ(笑) 単純なイーミックとエティックな違いじゃなさそうだ。あ、イーミックとエティックってのは有名な話があるからわかりやすい。日本語には「蝶」と「蛾」という言葉があるけどフランス語では両方「パピヨン」なのね。このとき「チョウチョ」に対して日本語ではイーミックなんだけどフランス語ではエティックな区別になる。英語の「brother」と日本語の「兄弟」の違いも同じ。日本語はイーミックだけど英語はエティック。それはいいんだ。今は「へ」と「ヘ」だよ!!(笑) 例えば記号論の議論ではゴシック体の「A」とイタリック体の「A」は違うのか?という話があるけど(ごめん、フォントファイル壊れてて違う表示ができないや(笑))それとはちょっと違うしねえ。今はこれ以上わからん。もうちょっと考えてみます。これ読んでなんか思いついたことがあったら掲示板にでも書き込んでください。サブジェクトは「へのへのへも字」で。

初対面の人に「君ってバカだね」といきなり言われたらどうします?私だったらとりあえず「そんなあなたにこんなパンチを♪」とか言って拳を施しちゃうかもしれませんが(笑)、とりあえず腹が立つ。でもこれがお互いを知った間柄で「あなたってバカねえ」と言われたら同じように怒るかな?僕は怒らない。なぜなら私はそこに優しい感情を見出すからね。でも辞書で「ばか」と引いたって悪口だと言うことは書いてあっても優しさを表す言葉だなんてはどこにも書いてない。こういうとき悪口としての「バカ」をデノテーション(外示、表示)と言いそれを踏まえた上で別のことを言おうとして使われるときの「バカ」をコノテーション(共示)と言います。コノテーションはデノテーションを前提として使われるのでいつでもデノテーションを意識して使わなくちゃならない。しかもコノテーションは表面に現れない意味だから逆に規制に引っかかることがなくどんなときでも使われうる。例えば、いやよいやよも好きの、、、、じゃなかった。「愛してる」だって「愛してる」ことを言っているのかどうかはわからない。その言葉は正しく伝わっているかい?そんなゲームにももう飽きた。僕が欲するのは直接言語。対象を指定した言葉なんだ。メタファーをぶち壊せ。言いたいことはただ一つ。

Tell me, Somebody tell me, Please tell me.
声にならない 言葉でも
Tell me, Somebody tell me, Please tell me.
まだ君の声は 届かない       (TELL ME ; hide)

03/22(2)

起床。寝る前にチャットで某@さんとUOモドキナ話をしていたせいかRPG風な夢を見ました。といっても格段面白いわけでもなくテキトーな夢。久しぶりに空を飛ぶ夢が見たいなあ。私は2種類の空を飛ぶ夢を見る。戦闘機みたいに猛スピードで地表すれすれのところを滑空するタイプとゆっくりと体育館みたいなところを水の中にいるように飛ぶような夢。どっちも楽しい。私は現実的に生身で空を飛んだことはないわけでそうするとそのときの夢の感覚は現実世界での体感によっているわけで、体育館の夢は水の中で、戦闘機はジェットコース―ターの記憶になっている。ついでに戦闘機の方は山間のお茶畑の上を飛ぶことが多い。

寝る前にしていたチャットには「やうゆさん」と言う方もいらっしゃったのですが私はと中で一緒にいた某@さんが間違えましたと発言するまでずっと「ゆうやさん」と言っていました。それまでずっと話していたのに、です。これが個人的語体系記憶(固有のコード)によるミスディレクションです。私の言葉では「ゆうや」という人名はあり得ても「やうゆ」という名前は名前として意味を持ちうる単語として認識されなかったのです。こうやって、思考は意識的なものだと思いがちですけど意外と無意識的に捉えているものも多いんです。ご注意あれ。

きのうの新聞に載っていた誰かの記憶のコラムは本能的能力質記憶と後天的能力記憶を区別することをしていなかったので恐ろしくめちゃくちゃな文章になっていたな。本気で細かい性格まで遺伝なんだと思っていたらすごい。コラム的にはいいのかもしれないけど読んだ人が間違った知識を吸収しなければ良いのですが。今日は夕方前におでかけしましょう。帰宅は23時ちょっと前予定。

03/22(1)

夜に飲むミルクココアもなかなか美味しいな。てかコーヒー淹れるのがめんどくさかっただけだったりして。でもけっきょくコーヒー淹れた。ドンドン橋落ちた。豆が残り少ないから買ってこないといけないなあ。私が人と話したくない話題は二つ。身体障害者の話と女権問題についての話。いわゆる差別問題。私みたいなエセニヒリストが言うことって決まってるでしょ?ほら、あんなことやこんなこと。できれば人にはそんなこと言いたくないからね。例えばサ、温室効果が本当に大気の二酸化炭素濃度の上昇によるものかどうかはまだ確定してないわけ。でもそんなこと言ったら袋叩きでしょ?だから疑問に思いつつも言わない。それが正しい政治家のありかた。とまでは言わないけどね。余計な一言を付け加えるならば参議院の産休制度のやつだけど一人反対した議員(名前知らない)はすごいね。とっても正論だと思うんだけどな。前は私もけっこう言ってたんだけど今はそんな気力はナッシング。

問題はただ一つ。ただ一つ。ただ一つ。って言ったら三つになるのかな?日は昇る。それでも夜明けはこない。矛盾とその乖離が指向する対象は、、、、いつも同じこと言ってるね。やめとこ。


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