Wednesday, March 15, 2000

ログ19('00 03/14~03/21)

03/21(5)

夕方に突如どうしてもS級妖怪が見たくなったのでバイクに乗って古本屋に行ってきました。でも近くの古本屋2件には仙水が登場するところまでしかなかったのでけっきょく街中のほうまで行く羽目になってしまった。ふ~満足。ついでに地雷震を読んできた。帰りにマクドナルドによろうかと思ったけど財布を持ってくるのを忘れたことに気が付いて中止。はなっから本を買う気がないヤな客です(笑) この前図書券をもらったんだけどまだ使ってないな。買う本はソール・A・クリプキの「名付けと必然性」と決めているんだけど小さな本屋にゃないからな。今度栄に行くときに紀伊國屋に寄って買いましょう。もうすぐ栄に中部地区最大の本屋ができるそうだからそのときでもいいかな。久しぶりに読んでない本がたまっています。そんなに長くない本ばかりなのでその気になれば二日三日で読み終わってしまうのですがなんかもったいなくて少しづつ読んでいます。こんな気分になったのもかなり久しぶり。もう1年くらい乱読してませんねえ。帰りに後ろの車にクラクション鳴らされて、なんよ煽りくれとんねえこんなら、と思って蹴りをいれようかと思ったけど弱気な僕にはそんなことできませんでした。

ちょっと試しにどのくらいプログラムを同時に起動させたらフリーズするか実験して見ました。ブラウザ、メイラ、HPエディタ、フラッシュ、画像処理ソフト、写真加工ソフト、FTP、ネット電話、IRC、まではいけたけどそこでちょっとHPエディタを動かそうと思ったら処理速度が非常に遅くなってフリーズ寸前になりました。ブラウザのウィンドウは14個が限界で(ただしページを読みこむともっと少なくなる)メイルの新規作成は30個まで(これもメイルの読み込みだったらもっと少なくなるだろう)。とても有意義なデータが取れました。

感覚は意外と鈍化していかないものなんですね。などと思いつつ今日も過ぎていく。

03/21(4)

3をアップしてないのに4を書こう(笑) 無意味でいいね。「無意味」があって「有意味」が使われるときはあることを強調したいときだけ、というとき「無意味」は有徴であり「意味」は無徴である、と言われます。つまり意味といったら「意味がある」か「有意味、無意味を合わせた概念」になるわけ。「構造という言葉の意味は体系を表す」というとき「意味」は有ることを前提として使われる。対して「意味の意味は?」のときは有意味無意味の対立ではなく概念上の問題を取り扱うことになる。意味の意味をしっかり判別しましょう。

なんてクダラナイ話題はさておき。国旗ネタも殺人ネタもノック前知事ネタも書いてもどうせ面白い事は書けないしなあ。「国旗なんてただの白い旗じゃん」とか「人を殺して何が悪い?」とか「事実って心証で決められるの?」なんてみんな思ってるしねえ。急進的な考えは意外と難しいものです。あ、一つだけ。政治汚職の裁判でもこの前の教皇の謝罪でも新聞だと「何らかの目的があって」、つまりパフォーマンスだと受け取られるわけだけどあれって可哀相だよね。そりゃまあほとんどがスタンスだけだろうけどさ。もう少しくらい肯定的に受けとめてあげてもいいのに。なんて言ったらお人好しなのかな。ま、どちらにしろ人間はなんらかの価値基準を持ちこまないと判断できなくって客観的事実だけじゃあ考えられない動物だからね。てか客観的事実なんてどこにもないんだけど(ケラケラ)。あ、またローカルな笑いだった?(笑) ものにはすべて価値がある。

03/21(3)

ついでに山盛りアンインスト実行。このパソコン買ってから使ったことのないプログラムとか数ヶ月開いてないプログラムは全部消しちゃいました。そうしたら4.3Gのパソコンなのに空きが2.7Gあります(笑) だって入ってるのテクストばっかりだしね。過去に見た面白いテクストなんかも保存してある。画像なんかは保存しない。動画なんて持ってのほか。省スペースパソコンです。たまにある言葉を思いついたときネット検索じゃなくってローカルのパソコンの中で検索することがあるけど半年くらい前に見たウェッブページとかが引っかかってきてびっくりすることがあるね。キャッシュは90Mbに設定してあるんだけど古い順に消していくわけじゃないのかなあ。どうなんだろ?苫小牧だろ。ってネタは前に使ったね。

んでもってさらにいじりまくってたらもう崩壊寸前になりました(笑) まともに作動してくれないプログラムが多くて困ります。自分のせいですけど。ICQもどうやってもちゃんと動いてくれないから一回アンインストしてレジストリからなにまで消しちゃった。だってここ最近で10回くらいアカウント変えてるのにファイルを見たらログに一番最初のアカウントが残ってたからね。これじゃまともに動作しない。でも修正の仕方もわからないからまたDLすることにしました。つーかICQなんて使っちゃいねえ。なんかHDが空いていくと気持ちがいいね。スカスカになっていくの。そのうちIEとか消したいなあ(笑)

3月18日の日記にある懐疑的な思考が脳裏に浮かんだとき思考原体たる意識化における意識活動はその自動的な還元方法から入り口へとリンクを結び環を閉じる。と書きましたが「意識化における意識活動」ではなく「意識下における意識活動」ですね。「意識化する意識活動」だと筋は通るけど話自体が当然のことになってしまってつまらなくなっちゃいます。それときのうの「未来を見ることをやめ裁断した現実は一方的な相違によって様相を分節する」は「形相を分節する」の間違い。これは逆に様相を分節するだとあまりにも突飛な考えで理解を得ることが難しくなっちゃうでしょう。、、、、え?(笑) さて、個人的なジョークはさておきダンスを踊ろうか。

03/21(2)

あ、下の「いつだってフラクタル~~」ってのは半年くらい前に書いた文章ね。きのうHDの中を掃除してたら見つけたの。もう自分で書いてたの忘れちゃったような日記とか見つけてね。ここのHPは形態がころころ変わるけどだいたい構成は残してあるからね。こんなの覚えてる人いるかなあ(笑) んでもって掲示板の過去ログとか取ってた時期があってそれを見ていたら某@さんの初書き込みを発見したりして(笑) もう8ヶ月になるんですねえ(妊娠してるわけじゃない)。

99年7月13日の自分の書き込み。投稿者「三中里予」(笑)

言葉には元来意味がない.それが意味を持つのは僕らがそれを共通の基礎として認識の構造形態を意識的形而上に置くことによって話法による通達をあるものとして規定しているからであって決してそのものとして表されていわけではない.それならばる無形態として位置付けられる軟体動物の本来の存在のレベルはそこなのでありましょうか?ただし、そうすることによって何らかが生まれてくるわけでは少しもない.スピノザ的見解が意味を齎すとすればそれは上記で言った系の中で尽くした言葉にのみであって、今、系の外側に立たんとする僕らは神を殺しているんだ.気付いていた?その瞬間と裏切りの背中が言葉に対する意味の変容と認識の外側という言明が持つ虚ろさと信じるということが愛しく思わるる転回の境界です.そして言葉というのはそこにおいてこそそうあるべきものであるのではないでしょうか.(<必殺難読解言葉シリーズ!(笑))もし僕らが言葉で何か伝わるのかという疑問を持てばそのとき言葉は手段としての意義を失います.これは神の存在と同じなのです.神を信じるものは神はいるのか?という疑問を持つべきではない.その問いは無垢な空間に埋没しその現象として悪意を剥き出しにして内部を襲うからです.そして、それが、「まず創めに言葉ありき」と言われる由縁なのです.説明を不可とするこの暴力性からなんとか逃れられないかと少しばかり言葉を尽くしてみましたがこれで私の伝えたいことが伝わるのならばメタファーということはありえない.それが、言葉です.・・・全部、嘘

後半はあんまり大したこと言ってないけど前半部分は今でもなっとくできるな(笑) こうやって人間は懐古主義になっていくのでしょうか?(違)

自分ルール((c)久米田康治)なんだけど一応この日記はあとから改竄なしの消去なしにしてるんですね。だからとっても消したい日とか修正したい部分や自分で納得できないところ、なんかもあるわけ。でもそのまま。記憶では消した日って一日分しかないと思う。そのせいで一貫性は皆無ですが僕が僕を知るためにやってることなんで許してください(笑) けっこうわかってきたしね。面白い言葉を聞いたんだよ。どんなかっていうと「原寸大の地図」っていう言葉。ははぁ、とうなづいちまったよ。なにか説明があったわけじゃないから勝手な解釈だけど心脳問題を解くためにはこういうやり方が必要なんじゃないかなあって思った。図面をひいて見るんじゃなくって原寸大で地図を作ってそれを俯瞰するの。いや、ただの比喩的な言い方で実際の方法は思いついてないんですけどね?(笑)今日は気力が抜けてるから脱走。する気力もなくて蹲ってよう。

03/21(1)

ふふん、我ながら面白い文章を書いてるもんだね。「いつだってフラクタルになりたいと願っていた。だけどこんな風にフラクタルにはなりたくない」 けっきょく変わってないってことかなあ。苦しいね。んで考えてみるとここ1年のフラクタルではなく7年くらいのフラクタルだということに気がつく。切ないね。とっても気の利いたセリフや的を射たセリフをいっぱい思いついたり聞いたりしたけどそれを言うほど僕はまだ決めきれていない。決めることなんてないんだろうけど。それでもけっきょくいつだって言いたいことはただ一つ。

ひさしぶりに実のないことでも書こうかなあ(笑) まあ、実なんてものはどこにもないんですけどね?国旗と国歌についてね。、、、、と思ったけど書く気なくしました。上の文書いた時点でなくしてたのを奮い立たせて書こうと思ったんですけどね。無理っす。

記号論と言語学はあまりにもまともに(真面目に、ではなく)勉強してるせいでここに書きにくくなってきたね。だいたいさぁ、形態素と音素の対照性なんて書いても面白いと思う人いないでしょ?あ、それ言ったらこのHPの存在意義が、、、、(笑) でも、まあ、これがまたすげぇ面白いんだよ。例えばアンドレ・マルティネの言語の二重分節なんて最高だよ?言連鎖の線状性は第一次分節によって記号素となり第二次分節で音素が現れる。このことの表すことはとりあえずこの段階では言語コードを無視するならば「私の名前は~~です」という構造は何十万通りにもなりうるということを示しているわけです。ニューロンはどれも同じものなのにその構造によって(ごにょごにょ)みたいなものかな、なんて言うとだから構造主義者は、なんて言われるのでそこまでは言わないことにしましょう(笑) だって論理性を求めるなら構造(体系)に行きつくのは自明なことじゃんねえ(ぶつぶつ)

03/20(2)

I have nothing, yeah I have nothing

ちょっとばかし気取ったサングラスをかけて街を歩けば木々は赤い葉を凍らせている。止まらないでイッツショットアップ。ベランダから眺めた飛行機は静止した形態を腕に靡かせる。それでも?僕らはいつでも眼を閉じていた。それが僕らのルール。未来を見ることをやめ裁断した現実は一方的な相違によって様相を分節する。ラディカルな、、、、

数年前に購入したパズルはどうしても1ピースが嵌らなくってこれが諦念だなんて考えていたけど目を曇らせてやったらできてしまった。嬉しくって、できないほうがよかったと考える自分。だいじょうぶ。いまのところルービックキューブは自分じゃできないからね。机と手の間に陰はある?接着していない空間に陰があり接続地点に陰がないように考えるならそれは机を二色に塗りわけこの色とこの色の間に陰はあるか?という問題のようなものだろう。問題の定義と言葉の定義をすり替えちゃいけない。それが僕の学んだこと。僕らは語を使い語によって思考することによって語に騙される。構造を微分して非曲線的な志向を見定めそこからマクロへフライトするんだ。純粋になろうとする意味がその構造の細分化によって定義されたならばきれいな愛は言葉を破壊しつくす。環境による支配で感情は分断しそれでも統一しようとするブレーキ(アクセル?)が、、光らせる。イズンフリィ?シャリラ。

03/20(1)

土曜日の夕方に友達二人に会って、泊めてもらっていました。晩ご飯まで作って頂いて感謝感謝です☆ とっても美味しくって、感激しちゃいました。ミスタードーナッツにも行けたしね(笑) ただ、パラッパラッパーをクリアしないとご飯抜きってのはやめてください(笑) リズム系ゲームは最大級に苦手なんです(^-^; 音楽、絵画など芸術に関することはしゃれにならないくらい苦手です。どんなに「私苦手なんですよ~~」と言ってる人でもわたしよりできない人を見たことがない。ある意味私の文字の下手さくらい自慢です(笑) わりぃか(悪くないのはわかってるんだけどね)。

日曜日は朝起きてから朝食を取り、3人で遊びに行くためにお弁当なんて作りました。もちろんそんなことができない私は見てる専門です(笑) み~て~る~だ~け~。お昼に食べたけど(笑) すごいなあ。せめて得意料理は?と聞かれてカップラーメンなら作れますが。なんて答えないようにしたいものです(さらにあまり好きじゃないし)。とってもいっぱい歩いて、いろいろなものを見たのでちょっと足が疲れましたが楽しかったです。久しぶりのやっぱりこういうのが楽しいようなあと思えるような時間でした。外歩きだったのに天気が曇りがちで雨が降らないかと心配したけどパラパラとたまに降るくらいで助かりました。雨で髪がぬれると色素が染みだしてコートが汚れる(笑) どこに行ったかは内緒だけどこんなのみてきました。これが電車じゃないほんとうの汽車です(笑) そのあと名古屋に戻ってから遠方からのお客様に名古屋料理を食わすために味噌カツ店へ。私は普段味噌カツ店でソースカツを食べてしまうくらい濃い味です。もちろん味噌汁は赤出汁。美味しかったけどね。たまに食べるにはとても美味しいと思う。でもこの味付けで毎日耐えられる人はよっぽどだと思う。毎日ケーキを食べる人がめったにいないようなものかな(そこまでいうか)。とりあえず、名古屋にきたら赤味噌。エビフライは二番煎じです。だってエビフライはどこにでもあって、ただ名古屋の人が好きなんじゃないか程度だけど(統計は知らないからほんとに好きなのかどうか知らない)赤味噌料理はない地方が多いでしょう。名古屋じゃ赤飯に甘納豆を入れたりはしないけどね。地方料理はたまに別地方の人にとって脅威になりえる。赤味噌料理は気にいってもらえたのでしょうか?

食事のあと二人とは別れて帰省してる友人に会いました。けっこう久しぶり(でもないのかな?)です。その友達もきて(面識はある)3人でガストへ。UOのネタばかりでわけわからん(笑) それとか郷土料理はまだいいけど民族料理はどうよ?ってなことを。個人的にはサソリなんかみたいなカリカリしたものは食べられると思うけど幼虫みたいなぷにぷに系はだめっぽいなあ。でもアフリカに行けるなら食べます。家を離れて恋しかったので(笑)1時半には帰ると言い張って別れました。二人はあのあと遊びにいったのかな。ということで月曜日は疲労のためお昼に起床したけど、ネットに繋いでチャットを一瞬ロムったらそこで今日は休日だねと書かれていて初めて休みだということに気がつく(笑) そういえばそんなこと誰か言っていたような気も。でも今日は一日部屋で読書でもして過ごすことにしましょう。これが日記です(笑)

03/18(2)

電柱。

雨の降らない街で。乾いた空気を彩る造花の溢れた花壇。カナブンの羽音が耳を擽り砂塵が鼻腔を刺激する。脳裏がちりちりと痛い。川の底で蹲る山椒魚はみずから出ようとはしない。勝手な僕は君を。危険な香りは僕を。濁った光彩の観劇で視床を破壊して。それぞれの、抱いて、ために、落ちていく、一人、焦がす。ために、ままに、だけを、ない。もう、ない、て、た。 (笑)いつだって踊ろう。タイムセイヘロゥ。生きていくには雨がいらない。どうか雨が降りませんように。いつだって傘をささずに。(#^ー^#)映るマングース。逆さの青い瞳に引き連れられた星が重要なんだ。メタリックな消しゴムを飲みこもう。駆け込め。we can say,

03/18(1)

ウィークリィmag2に載ってた記事を転載。

○母はバリバリ大阪弁。美容院で出来上がりを見せられたとき「におてる?」と美容師さんに聞いて、真顔で「特ににおいませんけど」と答えられた。

そういや数年前に大島出身の人に会ったときに(現日芸大)面白い話を聞いたんだよね。大島には「もみあげ」という言葉がなかったらしい。んで、東京に出てきて初めて美容院に行ったときに美容師さんに「もみあげはどうしますか?」と聞かれてもみあげがわからない彼は「はぁ、揉んでください」と答えたんだってさ。

夢は無意識だと言われるね。たぶんその根拠は夢はどんな夢を見るか明晰夢じゃない限り決められないからなんだと思う。ということは明示意識はどんなことを考えるかを決めようとするその意志だというわけだ。しかしだとしても明示意識が考えようとするその意志の根拠はやっぱり無意識になるんじゃないか?これは空腹感に似ているかもしれない。おなかがすいたときに感じられる空腹感はそれ自体は明示的なものだけどその感覚を生み出している現感覚自体は無意識だ。言葉を発するときに人間はコンテクストだけを頭に残して話している。一つ一つの単語を考えながら話すときはあまりないだろう。話し方それ自体が問題になる詩や国会答弁なんかは除いてね。そうしたとき選ばれる単語は無意識による言葉ということになる。話しているうちに自分でも驚いてしまうようなことを口走ることがあるのはこのためだろう。

ある懐疑的な思考が脳裏に浮かんだとき思考原体たる意識化における意識活動はその自動的な還元方法から入り口へとリンクを結び環を閉じる。そのとき形而上的な目を持つならば環は一つの解答になりえるがそのときも必ず目の後ろからでているひもは環の内側から延びていることを忘れてはならない。そうした統一的な思考を目指す志向が論理的に行きつくことのないはずの答に少しでも近づけるだろう。人間は言葉を使い対象を言葉にすることによって構造を写像しさらにはその性質を抽出することによって相互体系における構造の非写像性を獲得するに至る。こうした環境世界の実現こそが一つの思考と呼ばれるにふさわしい立場を得る条件なのではないだろうか。

今日の夜は外食して外泊なので更新はなしかな。でも起きてすぐに更新したし(笑)

03/17(4)

イッタ~~。けっこう長く書いてたらエラーが出て消えちゃいました。でもこりずに(笑) なぁに書いてたんだったっけなあ。忘れちまったよ。だから書きなおし。なんかいつでも更新してるような状態だけどこれでもけっこう時間を見ては本を読んでるんだけどね。大したものは読んでないけど。北海道の方言で「たいして」ってあったと思うけどなかったかな?私の好きな言葉があって、「自分に言い訳しないように」。私が言ったんだけど(笑) 自分に言い訳するのって簡単なんですよね。言い訳の対象が自分なわけですからその基準が曖昧になるわけです。一般にAがBについて言及するときはAの基準がBに適用されるわけですから多少の客観性が導入されうるわけ。でもAがAに言及する(つまり自己言及)ときはAの基準がAに適用されるから前者のAの基準が揺らぐと後者のAにそのままダイレクトに伝わり基準が恣意的になってしまう。もちろん心中で自分のことを指して「お前は~~しなくちゃならない」なんていうように自分を他者的に対象化すること(主体の客体化)もありその場合はかなり不確定な部分はありつつも少しは客観性を期待できるわけですが。でもとてもあてにはできない。ということで自分への言い訳はどうにでもなってしまうからなるべくしないようになあと思うわけであります。なるべく客観的に考えてみたつもりなんだけどこれも対象が自分なわけだから基準が不明瞭になっているかもしれないわけでそこんとこどうでしょう?(笑)

言葉って面白いところがあって、コードの規制から外れると想像性を発揮するんですよね。普段と違った形で使われると新しい意味を生み出すわけです。ところがこれもそのときによるわけで、例えば論文中などでコードから外すとただの間違いとして捉えられる。このことの表してることは私達はただそのときのその文章一回のみから情報を取り出すのではなく横目でコンテクストを参照しつつ言葉を使っていると言うことです。よく「必要とあらばコンテクストを参照する」と言われますがそうではなくいつでも参照していると私は思うんですよね。えっと、、、、なんか書こうと思ったことがあったんだけどな。なんだったっけ?あ、そうそう。文系と理系だ。ネットをうろちょろしてるとたまに文系と理系の違いを書いてるところがあったりするんだよね。で、それに便乗して書いちゃおうと(笑) まずよく言われるのが理系は論理的思考である、というもの。でもそれって文系のあなたがたまたま論理的に考えられないだけとちゃう?とか(笑) ただ、文系は論理的じゃなくってもたしょうやっていけるところは確かにあると思うけどね。でもそれってかなり入り口でけっきょく文系でも理系でも先に進もうと思うなら論理が必要なんじゃないかなあ。てか、考えるって行為は論理と表裏一体で、見落としているところがあったり一つに視点が向いていたりしても必ず論理はあるんだよね。ということは客観性を重視するのが理系で主観的なのが文系?あ、ありきたりだ、、、、(笑) でもやっぱりそれにしたって突き詰めていくならば文系にも客観性は必要だしなあ。つーことは理系は科学、数学なんかをメインにして文系は文学、歴史なんかってことってのはどう?最初からそういう意味か(笑) 無理にわけようとするからいけないのかな。性別を考えるときに男性はこうで女性はこうだなんて言いきろうとすると難しくなるようなことかもしれない。見るポイントによって変わるものなんだから。てことで、こだわらないのが一番!!当然だね(笑)

久しぶりにハロウィーン聴いてるけどたまにはメタルもいいなあ。

03/17(3)

また今日もやってしまった。デフラグ。最適化ってやつね。いや、するのはいいんだけどね。そうじゃなくってずっと終わるまで見てた(笑) 私はパソコン詳しくないから知らないけどWINなら最適化するときに詳細をチェックすると膨大なクラスタがちょこっとずつ最適化されていくのが見れるんじゃないかな。で、終わるまで1時間とか2時間ずっと画面をぼーっと見続けるの(笑) こういうのなんとなく好きなんだよね。JAVAの人工生命とかさ。チマチマ変化し続けるようなやつ。きのう買ってきた言語学の本読んでるけどやっぱり記号論のほうが面白いなあ。この本は概論を述べたものだからもちろん記号論も含まれてるんだけどそこが一番面白かったしな。でも言語ばかりというわけにもいかなくってたまには心脳問題(笑) デネットは「意識を機械が持つかどうかはプログラムの問題である」と言ったわけだけど、それだけじゃないんだよねえ。やっぱり構造も問題になるわけさ。ま、プログラムもメタ的にはハードウェア上の問題と考えられなくはないけどね。つまり構成要素が問題ではなく構造が主題。人間の心はやはり脳で生成されていると考えるべきだと私は思うんだけどそのとき脳の個々のエレメントは間接的関与だと考えられる。実質的に直接心を生み出しているのはやはり脳の構造だよなあ。ただし、脳の構造だと明言してしまえばそこから創発される心に実体はなく、心は脳に働きかけることができなくなるという問題を抱え込んでしまう。私が今なにか食べたいと思ったときに食べ物を取りに行き選択し摂取することができることから心は脳に働きかけていると言えると思う。論理的にはそう脳が構造によって考えたことが浮遊して心に像を結んだだけで実際にはやはり心なんてないんだと考えることもできるけど、そうすると心はまったく実用性のないものになってしまって進化論的に矛盾を生じてしまう。ああ、、、、でも進化が完璧だとは限らないしなあ。人間が発展しやすいように脳の構造を変えていったところたまたま構造的に心が生み出されてしまったというのはどうでしょう?いわゆる心の随伴現象説ですな(笑) でもそうすれば、心はなんの効力も発揮できない代わりにエネルギーを消費することもない。つまり人間は実質的に全員ゾンビ(述語)なんじゃないか?と私は今思ったわけです。ゾンビが論理的に可能であるならば心はその存在を問わなくていい。茂木さんが怒りそうな説だなあ(笑) 注:心とは、意識に明示される独特の質感(クオリア)が感じられるような思考空間を指すもの、と定義したとき。一般の意味での心より限定的。

んでもって進化の価値について。ダーウィンの進化論によって人間は猿の進化形態だと位置付けられたわけですが、それでも進化の頂点に立っているとは思われているわけでして。ところが私はこれにちょいと異論があるんだよね。よく言われるように人間より優れた機能をもつ動物は数多いです。「数多い」をいつも「あまたい」と読んじゃうんだけど。「他人事」は「ひとごと」ですよ?大きさで言えばシロナガスクジラが一番だし犬だって嗅覚は人間よりはるかに優れてる。数だったらウイルスとかね。人間が優れてるのは意識を持っている、ということなのかな。いろんな異論はあると思うけど。だから人間が頂点に立つ進化論はあくまで人間にしか通用しない。でも面白いところはその頂点に立つとかどっちが優れてるかとかそういった価値観や意味付けは人間にしかできないんだよね。猫は夜目が効くからって自分が人間より優れてると自分で思うことはできないんです。人間は人間がその能力を知ってから、じゃあ猫は自分が一番優れていると思ってるかもしれないとかそれくらいなら意識を持ってるほうがすごいよ、という価値判断をして体系を作り上げる。人間の優れているところは意識を持つことですが、優れているということも意識がなければ言えないのです。どう?ためになったでしょ(笑)

03/17(2)

と、下のような話しが文化記号論。と、このように私の言うことに首尾一貫はない(笑)文化記号論も面白いんだけどね。ジョーク自体が面白いのかとジョークの働きが面白いのかの違い。前に家庭教師のTRYについて書いたときに「MOTHER、Mを取ったら他人です」というコピーがあるがそれしかないんかい!!と言ったけど、例えばこれは「M」という言葉に意味がないのでつまらない。これが「Mじゃなくなったら」とかだといろいろ想像できる(笑) あんまり意味がないけどね。意味がない文章と言うのは受信側にとっては見抜くのが難しい。ここに「鼻のない火山弾が春を想起する」というテクストがあったとき私が意味もなく思いついた単語を羅列したのかなにか想いを込めて書いたのかは他者にはわからない。ましてやこれが詩の一節だったならば鼻は花であり火山弾は花壇のことではないか?なんてことまで考えてしまうかもしれない。もともとは同じ文章なのにそれの位置付けにおいて捉えられ方が変わってしまう。人間は言葉において一個一個の文章からだけ意味を抽出するのではなく全体的な文章から読み解いていく方法を取る。術語的に言えばコンテクストを参照しているわけです。詩においては特にコンテクストを見なければまったくわからない。私は詩心なんてないからわからないけど(笑)

とあるMLで「絶対音楽」という言葉を聞きました。説明では「なにかの情景や感情の描写ではなく音楽そのものだけで構成された音楽のこと」だそうです。私はこの理念はわかる。ただ、理想化された音楽は音楽になり得ないのです。音楽を聴くとき人間は何らかの形で感情を移入しようとしているのであり、音楽にそうした不確定要素を導入したいと思っている。感情を込めた音楽も聴く人に感情を伝えようとしているわけであり逆説的にはその絶対音楽と言われるものも人に感情を伝えようとしている。人間は音楽を聞くときそこにクオリアを必ず介入させるのであり、そうである以上理想的な音楽は理想的ではないか音楽にならない。例えばそれは完全な文学があるか?ということに似ていなくはない。そこでは文章による文章だけが書かれている。完全にコードの制約下におかれた文章。そうした文章が有効なのは科学における論文だと言っていいだろうか。不確定な言葉遣いを消去し客観に基づいた文章は意味を正確に伝えるが創発性はない。想像的じゃないんだね。芸術は抽象化された部分がなければ芸術たることができないのではあるまいか。まあ、とはいえ私はその絶対音楽を否定するつもりはない。芸術(または言葉)はもともと規制と自由の両端を行き来するものだしときには極端なものの存在がなければメタ的な意味で規制は分散化していってしまうだろう。、、、、きれいな落ちだ(笑)

抽象的なものを具体化するときに二つの考え方があるんだけどわかるかな?例えば四角のカンバスの中に丸が二つ描かれている。この絵を具体化していったときにまず考えられるのはその丸二つは実は猫とねずみのことだった、というもの。ところがそれが四角形が二つになったらそれは具体化ではないか?これも具体化。もっと正確にいうならばビット化になるのかな。四角形二つは曖昧な部分がなく描かれているのにそれは絵として抽象的なままだね。確率でいうならば55%じゃ曖昧だからはっきりさせようとしたら54.87%になるようなもの。どっちの意味で具体化なのかをまず考えなくてはいけない。そうそう、確率と言えば今日昼間にTVを見たら台湾の選挙のことをやってたんだけどアナウンサ(?)が「投票率は80%になります。日本では45%とかなのに。」とかそんなようなことを言ったところコメンテータが「人口が倍なわけじゃないのに、、、、」と言っていました。これでこのコメンテータ馬鹿丸だし(笑) 人口が日本の3倍以上の国では投票率が100%超えてるんでしょうか(笑)

03/17(1)

ウェッブを歩き回っているとたまにネット初心者の話なんかで「一度出したメイルをキャンセルしたいといわれた」とかありますね。見たことない?あるんですよ。あるったらある。あれ!!というように「ある」は動詞だけど命令形がない。そーゆー話じゃなかったな。このネット初心者がメイルをキャンセルしたい、と思う心理には記号論的なものが含まれていますね。つまり、普通の会話では一度言ったことを取り消すことができるとは考えないわけです。訂正するとかではなくまったくなかったことにするということはできない。それに対してなぜメイルはできるんじゃないかと思うか。それは言語の機能分類における「接触行為」において会話は直接的なのに対してメイルは間接的だからですね。例えばこれが同じネットでも初心者の方はチャットでの発言が取り消せるとは思わないのではないでしょうか?会話においてはメッセージは発話された瞬間に霧散していきますが(これは言語の線状性が強くでていますね)メイルの場合は発信されても同じメイルが送信済みフォルダに残る。テクストという記号が本当はその名前を持つものにわかれていてもそうした機能をまだ理解していないものにとってはただ一つの記号として捉えられるわけです。あまりいい例えじゃないけど未開の土地のひとに「コップ」を教えるときに一つのコップを見せてこれがコップですよと教えても私達のコップの概念は伝わらない。様々なコップを見せてそこから統覚的に指示される対象を教えなくちゃいけないわけです。この、「コップ」という概念を取り違えることなく正しく使える記号体系を持った共同体が「ラング」であり、コップをとってくださいと伝達する個々の伝達としてパロールがあって、そうした言語活動がランガージュと呼ばれるわけです。話が飛んだな。送ったメイルはここで参照できるけど相手にも届いているんだよ、ということを教えなくちゃいけない。こうしてネットの働きという規則(コード)を覚えていくのです。

03/16

記号論って面白いねえ。辞書で「記号論」をひくと「論理実証主義」という言葉が見られるけど論理実証主義といえばウィトゲンシュタインですね。つまり、私は記号論という新しいものを見つけたように思っていましたが結局ウィトゲンシュタインの手中だったわけです。前に「不完全性定理」にはまったときも読みこんでいくうちにそれがウィトゲンシュタインの「語り得ぬもの」と関連していることに気が付き驚いたことがありました。偶然というよりは必然ですね。私は言語と論理からその対象として「私」というものを知ろうとしているのかもしれません。まあ、そこまでは言わなくても私の好きな分野にいつでもウィトゲンシュタインが見え隠れしてることは確かなようだ。それで読んでいくと、どうも私は言語学、記号論と比べて文化言語学や文化記号論はそこまで好きじゃないみたい。もちろん考察には必要であって読むし面白いとは思うけど熱意は湧いてこない。私が面白いと思うものには「論理」が必要なのかな。それが前面に押し出された分野が好き。論理的じゃないものは好きじゃない。自分の生活態度は別だけどね。とても論理的だとは言い難いし(笑)

今日はミスタードーナッツで晩ご飯。オールドファッションにエンゼルクリーム。それにコーヒー。チョコファッションが食べたかったんだけどオールドファッションしかなかったから。友達が前にミスドにいたときに店員がオールドファッションを持って厨房に入って、そのあとチョコを掛けてチョコファッションにして持ってきて「できたて」と言っていたのを目撃したらしい(笑) でも、それでいいから作って欲しかったかも(笑) ラッキーカードは2点が出たけど私は既にお弁当箱を2つもらっているので隣の夫婦にあげました。

もし誰かが哲学をしようと思うならば記号論(言語学)は必須だね。言語を顧みる事なく哲学をしても本質には近づき得ない。もちろん、哲学肌の人間なら言語学をする前に言葉というものについて考えたことが必ずあると思うけど。例えば「意味の意味は?」という問いはそれだけでもう記号論を総動員して考えなくちゃいけないわけだし。それに対して詩人は記号論を知らない方がいいかも。言語には詩的機能があるわけだけど、詩人が自分の書く詩がどんな理由に基づいているかを知ってしまったら書きにくいことこの上ないもんね。詩に多く見られるのが比喩だけど、詩のなかで「大空」という言葉が出てきたときに大空は表示機能としては広大な空ということを表すわけだけど共示的に自由を対象している、とかナンセンス詩はそのコンテクストの不可解性からコードを打破し言語の束縛を解こうとしている、なんて言われると書けなくなっちゃうもんね。言葉は発した瞬間に論理性を失い、ただその言語による論理に規制され、それでも自由を求め創造されるのです。

03/14

意味なんてなくてもいいだろうかなじゃないけどと考えて。僕は人を。なぁんてね。新聞には永井先生のインタビューが載っていて(関係なくだけど)「倫理はもともと根拠を求めてはいけないものなのです」と書かれていたのが印象的。なかはだはそのてきごうするいきていないことをまさにせつなからさんしょうするときにみえないことばをかたられないようにするきごうなのかもしれなくてそのしじはいつもきれいさっぱりきえさられていてかんじんなからはのもどるみちはそのきていをはかいしているかもしれないわけでも。それ以外どうでもいいと言っていたのにそれがなくなったらどうすればいいと思う?そんなことはいつでも背中に書かれているから。

以下、詩。題名は「空を舞う鳥」かな。1と2が1番2番で3がサビね。誰か曲つけてください。

1. 多分、形骸化した文章なんだろう。統一された意識一般はすべてを見ている。だけど書くことを拒否してるからそのために僕はなにも言わない。求められた言葉の範囲は空間的な構造を消してコンテクストに開示されるだろう。コードはいつでも不定だ。例えば笑いながら書いた僕の片仮名を君がひらがなと読み違えるように。いつでもそんな危険はある。だけど三角形はいつも泣いている。そのボールペンの茶色が故にね。赤い丸が止まった時計の針とそのうえに付けられたリボンに白い光りを重いパズルの指先でメソッドを見つけたときのあの快感。言葉はもともと完全コードに指定されない。なぜなら逆さになった青い瞳が回りの10個の星を引き連れて燃えているから。そんな矛盾でいつも中途半端なダンス。踊ればいいのか逃げ出したいのかわからない。そして僕は階段を降りる。青く光る白い傘を手に持たないためにね。低温動物は自重のために自重する。低血糖なんだね。オーライ。多分、あいつと一緒。死ぬ気もないのに指は切れ味を舐める。笑ってる。ラジオの笑い方講座で聞いたみたいねにね。口で笑ってから次に目で笑うと自然な笑い方に見えます。だそうで。いつだって丸めた紙くず。バラのペットボトルは握った同心円の外側に書かれた辞書。言うなれば、そのとき僕が彼に囁いた言葉のように。海イグアナと陸イグアナの違いを知らない振りをしたら「海陸」と言うのだろうか。知ってた。だから言わないんだ。不完全なテクストは意志の名のもとに完全化する。

2. 僕の人生はひとつのシンボル。統一された意識一般を変換する、そして残ったシンボルは形骸化した見られるための文章になりうるのだろう。拒否構造の指定する対象は共示を使いスキーマをエティックにしている。それはいつも不定な意識を流れに沿って記述する外延的な、本質を外して書かれた(が故に)意味を重層的な湖なんだ。例えばひらがなと片仮名の違いがイーミックになるようにね。言いたいこと、わかるかな。僕らはメタフレームを使って話すんだ。消しゴムを僕の意志で主体化して書けば消しゴムは消えてしまうように。その快感はそのとき概念を持たなくなる。ソリュージョンは幻想。完全にしてしまえばいいのに、とも思う。それなら困らない。愛してると伝えることだけは、ね。他の全てで困っても。逆接が否定できるための認知は過去へと経験を派生し衛星的な行動を必要とする?つまり、矛盾した言葉は矛盾していない。そしてrun away.目に見えることを信じるならば、簪を一緒なんだ。手に取った輝く、は痛み入ります。そんなときは77.8でいいよね。いつだってベッドのうえで丸くなって。そこには文字など書かれていないのに、溝しかないのに、読めるのかな。そのとき僕が狭いかな、と聞いたように。そして笑ったように。知らない振りしても、いいかな。蒲鉾のように。不完全な人格が融合してcommonになったら不完全さを要求した欲求に合致して完全化。そして君は僕を殺す。

3. 論理は論理性を保有する必要はない。ユギブラァブバァネィム。開示する主体の構造事実がコンテクストの未知から派生する階層的パラディグマティックを夢想するならばそのときランダムな配置は意味を含むように思われやすくなるかもしれないから、とは言ってもその可能性を排除することは一方では言葉をコンテクストの参照によってコードとの中間を取ったことの名残で難しくなるかもしれないわけで、だから意志の介在を認定することは自身の体系を逆流する形に近い。ショトゥザハー。だからそのとき僕はある懐疑的な思考を半信半疑で半身で構えてトレィスしてみたってわけさ。いわば修飾事グランドゥ。行こうじゃないかもしれないことを言わんとするならまさに指定したその虚世界で実験を重ね(繰り返しということ?)その手にあからさまな危惧を持ちこんだらカンパネルラ。重要の事なからないだけどでは僕のサインをホームラン。意味をないからこそその心臓で迷わることを。可能を別格にする言葉はいつもなにか足りなくて。時間だけがあの最小を見ます。だからこそ雨は降る。まずは順番を決めて、なくてもその紙面が列する物憂げな固まりは穴をあけるだろうか。セイグバイネヴァセイグバイ。みえないことを固まった何回の衝撃とともに語るならばいつでも今度は察知するだろう。エンディングにあることならがいつか羅列を吐き出し賛同ならば論じられる形無し北のでもぞもぞしてるじゃないか。つまりはそういうこと。同じ言葉が裸足を苦しい。それがミザリィ?この街の星間はバグってる。その意識を持てば言葉はリビンオンナ。言葉は口にされた瞬間に対象を失い形骸化する。いいえ、考えられた瞬間に対象はなくなっているのです。いいえ、はじめから対象などなかったのです。対象は思考の生み出したイリュージョンなの。そう、見てはいけない。見てしまったら消え去ってしまう。確かめてはならない。確かめたらその瞬間に幻想は崩壊してしまうのあろうとも飾らない食事を。その腕にあるかなだろうは右と左を突き抜けて位置を見出すのだろうか。つまり、それらを統合して結論をだすなら僕は



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