Monday, November 15, 1999

ログ10('99 11/14~11/22)

少女はいつか大人になるの日々

何を失い?(全力逃亡)


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「シャーロック・ホームズはコナン・ドイル。ではアルセーヌ・ルパンは?の日」11/22(月)

●昨日は夜に少し仮眠をとったので今日は用事が午前中だけなので徹夜でいこう、と思っていたら案の定5時くらいに睡魔君が。で、寝たらもちろん起床時間はヤバヤバでした。でもさくさくっと終わらせて午後は小休止。小公子。小学校の図書館で借りてまだ返してません。今度返しにいかないと。欧州の民家でご先祖様が数百年まえに借りた本が見つかって図書館に返そうとしたら延滞料金で数百万円取られたそうです。ほのぼのとした心暖まる話ですな。欧州の図書館は日本の蔵みたいなものか。蔵を建てればそこから宝物がでてくると思っていたのはのびた君。うなぎは泥の中から発声します。ええ、わたしこの目で見たんです!!相田の背中に、、、、わかる人だけわかるネタ。高校時代の友達がアメリカに留学すると言うので名古屋空港まで見送りにいってきました。そのまま永住する予定だそうで会うことももうないかもしれません。いまは電子メイルがありますし国際電話も安くなりましたし別に手紙だって出せるんだし困ったことは何一つないのですけどそれでも涙は出ます。今ごろは太平洋の真上ですね。彼の前に希望の道がのびていることを願います。グッドラック。しかし久しぶりに空港に行ったので(うちからは自転車でもすぐいけるくらいの距離なんですけど)飛行機の着陸を見てきました。音が気持ち良い。4機しかみませんでしたが。空港の南側にある公園から見てましたので帰りに中華機事故の慰霊碑に彼の無事を祈ってきました。名古屋空港は昔きつねが棲んでたのですがいまでもいるのでしょうか。

●「数百万」とか言われたときいくつくらいだと思いますか?わたしは3~4なんですけど、広辞苑には「2~3、あるいは5~6の少ない数を漠然と表す語」と載っていますね。ミソは7、8、9、が含まれないところ。なぜでしょうか?わたしの考えるところでは「1」の差が占める割合ですね。3~4では3に比べて4は33%増加しています。6は5に比べて20%増加している。で、7は6に比べて16%増加しているわけですけど、普段「数人」などと「数(すう)」と言うときは誤差範囲として16%の誤差を気にならないレベルで使用の要請をしているのではないでしょうか。つまり、30%前後の誤差を容認するつもりで「数人」と言っている人にとって16%の誤差は気にならないわけです。それに対して「1~2」は一気に100%増加しますし、それくらいわかるやろってことでしょうか。ですから「数(すう)」は20~50%の間で誤差範囲指定するときに使われる言葉なのではないでしょうか。もちろんただの慣習で2~3、5~6という可能性もあり(笑

●ある本の書評に、「書き手は、『親切な』小坂修平や竹田青嗣たち~~」と書かれていて爆笑。なんかさ、言われる竹田さんも竹田さんだけどすっごい日本語的な表現だなあと思った。食べ物のCMで甘さ控えめと言っているのを聞きますがあれって甘さは控えてるけど糖分はそのままだよ~~って言いたいのでしょうか?カロリーないと力でませんからね(笑)。FAT FREEを太り放題と訳したのはわたしの友達。空模様をくうぼさまと読んだ人と同一人物です(というかこっちのネタを日記に書いたか覚えていない)。チャットでいきなり「相馬裕子っていう歌手知ってる?」と聞かれました。知ってるも何もわたしの家の裏が実家です。たしかに知ってる人は少ないと思うけど。小さいころ座布団の上に乗っかって引きずってもらって遊んでました(笑)。それしか覚えてないですけど(笑)。好きな歌手の一人に久松史奈という方がいますがあまり知ってる人はいないでしょう。明日はおやすみです。晴れたら読書でもしましょう(笑)。(雨が降ったらネットでもしよう)

今日の気になった言葉 : ホーリズム カンパネラ 所与(データ) ハッブル定数


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「実はマジョリティ志向人間の日」11/21(日)

●めちゃくちゃ久しぶりに新しいチャットルームにいってみる。適当に選んだわりにはいいところだった。たまに顔を出してみようと思う。日記系サイトによくあるのは他の日記がどうだとか批判しているサイトを批判して批判的なことばっかり書いても面白くないよね~~とか書いてだいたいそのあとに批判行為は楽だからとかいってブルーモードに陥っていくページ。ところがこの文章を書いた瞬間にこのページもお仲間入りしてしまいましたね(笑)。これが自己言及性が影響を外側に広げる場合です。信州大の篠原さんが名付け行為の外延性について述べてますが簡単に言えば名付けという行為は自分が付けようと思った範囲よりも大きく定まってしまうことがある、ということでしょう。例えば世界の誰もが星をみたことがなくって、ある一人の男がはじめて星を見たとしましょう。彼はその(遠くに見えた)物体に「お星さま」という名前を付けます。ところが彼らの仲間は空に浮かぶ他の物体もお星さまと呼ぶようになったのです。じゃあはじめの彼はそれを「それはお星さまじゃない!俺が名前を付けたのは「あの」物体になんだ!」というでしょうか?たぶん言わないでしょう。名付けという行為は共有されているからです。その共有がなかったら誰がものに名前を付けようと思うでしょうか。前半と後半は実は繋がりがないです。

わたしはでも「時間」とか「存在」とか「わたし」、「空間」について考えるのが苦手ですね。だってとっかかりがないでしょ。「ある」とはなにか?と聞かれてもそれは無条件に散見するから。特殊な事例のないありとあらゆる、とさえいえる普遍性を持つ一般的な事柄はすべての前提になり疑いの余地が残されません。「ある」ということに比較対象があればいいんですけど。でもまあこういうことをすっと本質を洞察できる天才もいるんでしょうね。すっとじゃなくても洞察できればすごいか。

「今きみはこの文章を読んでいない」という文章が目の前にあったらどうしますか?(たぶん実際に目の前にある方がほとん度でしょうけど) 似たものはいくつでもありますね。クイズなんかで「あなたがしていることをあてましょう」とかいって「わたしの言葉を聞いている」とか言えばいいわけです。聞いていないときはその言葉を聞けないわけですからいつでも真になる恒真命題です。今でないことはあるか。自分でないことはできるか。このことについての思考こそが自我を開在させる。わたしはたぶんボールの中にいるのです。内側に充満している。ボールを膨らましても握りつぶしてもボールとわたしのかたちに差異は起こらないのです、、、、 そういえば一つ質問。「、、、、」これって半角かななんでしょうか?UNIX系のチャットで表示されへんかった。ついでに全角では「、、、、」のことです。今まで文末に変なのが見えていた人ごめんなさい。ついでに一番ありがちな話が「うるさい!!」と怒鳴る先生がうるさいという話。黙ってくださいと言われたら黙ればいいのでしょうか。それとも「はい、わかりました」といったらいいのでしょうか。実は黙ることも情報交換の一手ですけど(神の一手ではない)それは言語の論理を共有するものの間でです。言葉を理解するものは沈黙を理解します。Aを理解するとはnotAを理解していることです。沈黙に勝る雄弁なしというとそれらしく聞こえますがそんなことわざはありません。こんなこという警官がいたら怖いよね(笑)。

わたしは自白強要されてこめかみに銃を突きつけられて警官の唇がぐにゃりと歪み、、、、

某K県警官:「ふっ、沈黙に勝る雄弁なしってな、お前の証言は俺が書いといてやるよ」

わたし、ピ~ンチ!!そこへ現れたのは正義の味方カタリエンヌ。

カタリエンヌ:「悪者め!沈黙からほんとうに言いたいことを汲み取るのが正しいあり方だ!!」

某K県警官:「お前がカタリエンヌか。では、俺も正体を明かそうか。我こそが言葉を明晰なこの世界に貶めんとする魔王カタルシスだ!」

カタリエンヌ:「お前があのカタルシスだったのか。しかしわたしの手にかかればお前を言葉の深遠な世界に導くことができよう」

カタルシス:「調子に乗るな。黙っていたら何もわからないからこっちの判断で決めるしかないじゃないか!」

カタリエンヌ:「沈黙は正当な言語手段だ。誠実に希求すれば必ず意義は表明される」

カタルシス:「なにを憲法9条みたいなことをいってるんだ。だいたいそういう曖昧な言葉が誤解を招き意味の曲解を横行させてるんじゃないか!」

カタリエンヌ:「それ、おまえのことだろ」

カタルシス:「ぐっ!」

カタリエンヌ:「そらみろ。言葉はラッセルの理論により正しい方向へ導かれることが決まっているからお前のような悪党が言葉を扱うと自己矛盾を引き起こすことになるんだ」

わたし:「あの、なぜ自己矛盾を起こすんですか?>カタリエンヌ」

カタリエンヌ:「悪者は最初から自分の中にわたし達から見ていいところも悪いところも抱えてるんだよ。完全な良い人がいないように完全な悪者もいないからね。だから彼は悪いことを批判しようと思ってもそれは自分に返ってきてしまうんだ。他者を批判しようと思ったのに自分のことだなんてまぬけだよね(笑)」

カタルシス:「くそう。言いたい放題言いおってからに。そういう自分だって沈黙の正しさを説きながらそれを語ってるじゃないか~~!!」

カタリエンヌ:「ぐはっ!(吐血)ひどいこというなぁ。だから、いまこうして沈黙について語っているのは形式的には言語の習得と同じ段階なんだよ。沈黙ということがどういうことかわからないと使えないだろ?僕はきみにこうして沈黙の愛を与えてるんじゃないか(おめめきらきら)」

カタルシス:「きしょいこというんじゃねーよ。こら。どてっぱらに穴あけて紐とおして天日干しにするぞ(ちょっと木場ちっくに)。なにが沈黙の愛だ。黙ってたってなあ、愛はつたわらねーんだよ。おめえのいう沈黙ってのは行動を全部起こさないってことだろ?だったら愛してるって思ってるだけでなにもいわねーしなにもしねーただのカス男じゃねえかよ」

カタリエンヌ:「きみもまだまだお子様だねえ。僕がさっき沈黙の愛という言葉を君に伝えたらそこから君はそれだけのことを考え出しただろ?ということはわたしの愛、沈黙はある程度伝わったわけだ」

カタルシス:「ひきょうものめ!ん?待てよ。でもおめえがそれを言わなかったら俺はそれを理解しなかったんじゃないか?」

カタリエンヌ:「なかなかいいところに気が付くじゃないか。そう、今回はきみに明示的に知らしめるために教えてやったが普段は言わずに沈黙のうちに理解させているのだよ。言っちゃったら、つまり明示的に理解しちゃったら、もっと言うと僕の言わんとするところを知られたら逆の意味で誤解されざるを得ないからね。つまり、こうして言葉で語ることが本質なのだ、というふうに思われちゃうからね」

カタルシス:「おお!それが言葉にしない内で言葉の重要性を伝えるという、、、、」

カタリエンヌ:「おっと。それ以上言わないでくれたまえ。彼女が本質的に理解することができなってしまうだろう?モナムー?では、諸君、さらばだ!語り得ぬものについては沈黙しなければならない!!」

わたし:「あ、待って!カタリエンヌ。もう少しお話を、、、、」

ばさばさっ(カタリエンヌ飛び去る。舞台は静かに暗転。何も残らない。一粒も。一言も)


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「シェイクミーベイビィの日」11/20(土)

●ちゅーこってスケジュールン2000、2個目を入手(笑)。そういやこのごろの食事ってドーナッツに頼ってるかも。家で一食とミスドでドーナッツを一つか二つ。よく食べる3食健康派なわたしにしては珍しいですね。自分の食事が減っていることにぜんぜん気が付いていませんでした。でも気が付かないということは必要なカロリーはとっているということでしょう。問題なし。うーん、自慢になるのかどうか知りませんがわたしは痩せているほうですね。身長は170cmで体重45kgです。これはけっこう気にしていることなんであんまり突っ込まないでくださいね。あ、冗談でならOK。ということで身長についてはだれかにまた嘘をついてしまいました。ごめんなさい。でもまああばら骨が浮く程度で内臓が浮いて見えるほどじゃないので健康体。45を軸にして上下するのでこれがベスト体重なのでしょう。身長も上下させられれば良いのにな。腕相撲に勝ったことはないけどアルバイトはあたまを使わなくてもいいようなものを選んでいたのでたまに力仕事とかあって大変でした。恋愛に根性はなかなか出さないけど仕事にはだしたりします。逆のときもあり。統一性皆無。そんなやつ。ディープインパクトの津波くらい感情の揺れが大きいです。好きといったあとはその100倍の苦しみを味わいます。ほら、あっという間にブルーモードでしょ?(笑)

きのうの夜サーフィンしてて見つけた無意味で面白いページ。体操をぜひみてください。FlashPlayerがないと見れないのかな?それかショックウェイブ。

●私をAとしてあなたをB、彼をCとする。私は「Aは~と言った」という文章を発言しない。また、あなたに向かって「Bは~と言った」とも言わない。Bの発言内容をあなたは当然のことながら承知しているからだ。しかしあなたに「あなたは~と言った」という文は成立する。これは了承ととっても良いだろうか。このことはあとで解明しよう。この感覚の不一致は「彼は~と言った」と「Cは~と言った」が一致することによって考慮される。彼やCという記号はこの文を書いている人物や読んでいる人物ではない誰かを想定してはいまいか。ゆりいか。あおりいか。A点からB点への移動がC点を中継するときB点とC点は入れ替え可能になる。しかしA点を移動させることはできない。B点からC点へA点へ移動しようとするときその法則を成り立たせる論理はすべてA(の原形)に則るからだ。

面白いことにすべての文章はB点を必要とする。「AがCに書いた」文であってもそれは自然とBの立脚を促す。たとえそれが日記であっても(一応これ日記なんだけど)その文章は読まれることを期待してあるのではないか。わたしに対しても。例えば世界に人間がわたしとあなただけなら固有名詞は不必要になるわけで、そこから考えると名前は第3者のためにあるのではないか、第3者の存在を自らの内側に取り込むために名を付けるのではないか。「あなた」ってことが心脳問題でも難しいと思うんですよね。わたしでもないし他者なんだけど目の前にいて言葉を介すことができるわけだし、、、、まあちょっとしたノイズでそんなにたいしたことないのかもしれませんけど。

●今までにしたことがないことといえばTVドラマを見ること。それとケンタッキーフライドチキンを食べたことがない。これくらい普通ですよね(同意を求める)。恋人にたばこを止めさせようと思ったら口をふさいじゃいましょう。

わたしは高校生になるくらいまでは左右対称ということに非常にこだわりました。もうね、右手と左手の握力が違わないように鍛えたり寝るときに前の晩右を向いて寝たら今日は左を向いてとか。食べ物を噛むとき口の中で右側と左側均一に噛むようにしたり。右に寄せたり左に寄せたり。こういうことってないですか?でも、高校に入ってから左右非対称のカッコよさに気が付いて崩したんですけどね。ピアスの穴は右に2つで左が一つ。

今日の気になった言葉 : ギャランドゥー コペンハーゲン 時間 涙 Sweet Emotion ごまめ カタルシス そして


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「セマンティクスエラーの日」11/19(金)

●はい、いつものようにミスタードーナッツに行ってきました。今週は月~金毎日行ってますね。はまりまくってます。はめられてます。はめをはずすってHな言葉だとずっと思ってました。関係ないですね。ドキドキ感を失いたくないですね。恋より愛のほうが素晴らしいと思われる風潮ですがわたしは恋が好きですね。鯉こくは美味しいです。数日前からパソコンの調子が悪くてヤバイですね。ネット落ちするかも知れません。このプロバイダは高いのでネット落ちしたら生活が楽になりますけど。もう必要なものはネットからDLしたのでなくても困らないんですけど。嘘です。もうちょっとふよふよしていたいですね。ということで今日のラッキーカラーはオレンジ。気まぐれオレンジロードって面白いマンガでしたね。よく覚えてないですけど。ドラえもんは偏平足ですけどちょっとだけ浮いてますから土踏まずがあっても意味ないですね。カカカカ。どこかでゴキブリ談義が盛り上がってましたけど「核戦争後にもゴキブリは生き残る」と「核戦争後はゴキブリが世界を支配する」をごっちゃにしてる人がいましたね。わたしは後者の方が魅力的な意見だと思いますけど。「1匹見たら30匹いると思え」ということは30匹退治してもあと870匹いるということですね。870匹退治しても756030匹残りますね。はい、ねずみ算ならぬゴキブリ算です。じゃあ1匹もいなかったらゴキブリはいないのでしょうか。そんなこと証明できませんね。それが「ベッドの片隅に隠された魔法」ですね(「黒猫の三角」第2章冒頭文)。ということでさくさくいきましょうか。

●死刑囚の手記を読み泣くわたし。なぜ涙が出るんですか?悲しくって止まらない。わたしの愛する人が消えてしまう前に、少しでも心を通じさせたい。言葉が通じるなんて奇蹟かもしれないけれどそれでもわたしは伝えようと思います。信じるしかない。幻想かもしれない。そしてそれでもかまわない。この小さな感情。大事にしたいです。エゴイストと呼ばれることにためらいはありません。愛する人のためなら。

あゝ私は恋をしてるんだ。これだけ書いたとき涙が出てしかたがなかつた。私は恋のために死んでも構はない。私は初めから死を覚悟して恋をしたのだ。 倉田百三「愛と認識との出発」

●日本語学の教授は古典のあらゆる文献を知っているでしょう。しかし一つの文芸作品を書き上げられるでしょうか?文士はあらゆる文献を知らないと素晴らしい作品を書けないでしょうか?ソクラテスがなんと言ったか。プラトンがどんな人物像なのか。それはわたしにとってただの記号でしかありません。

「美」とはなにか?という問いは数千年を経て未だもって解かれてないんですね。科学は外延的記述ですから人の心とは一応手を切ることができますから人とは無関係に進化していると言えなくもないでしょう(もちろんすべてとは言いませんが)。でも「美」(という観念)は人間の心そのものですから記述にはそれを思う(考える)人間の心のあり様を写し出さなくてはなりません。ギリシャ時代から心の「可能性」自体は変化していないことが美を解けない理由なのではないかと考えたりします。心のあり方、脳の物理的構造の進化によってこそ美は解かれるのではないでしょうか。もちろん一般的な現代人の脳を持つわたしはその答えを知りようもないのですけど。

でも脳は面白いですね。ニューロンの総数は3歳で決まるとわたしは読んだ覚えがあるんですけど海馬系では成人でも作られてるらしいですね。海馬といえば記憶。覚えることができるというのは不思議です。何がかというと時間との関連で。記憶されたものは過去という属性を帯びるわけですけど過去っていったいなんでしょう?記憶されたものは過去の出来事ではありますが過去ではないですね。あ、過去の属性を帯びるという言い方もおかしいか。過去になるわけじゃないんですから。過去には行けないと言いますがそりゃそうです。過去に行こうとしたら記憶も遡りますから戻ったのかどうか判別できません。ニーチェも言ってるでしょ?無限の時間の中に有限の物質があるならば組み合わせは有限であるから過去に同じことがあったはずだって。んでもってそりゃあけっきょく同じなんだから永遠回帰になっちまうからこの一回性を大切にしましょ~~ってね。>お姉さん でもまあなんで時間が無限で物質が有限なのか説明されてないですけど。

新コーナー:

シシュフォス この子を!(die Kleine!) やるせなくなるほど mouse rat 過ちは則ち改むるに憚ること勿れ[論語学而] ファンダメンタルキッス ヘブン SPEED

誰か一緒にサマーストーリィ(林檎の樹)を見ませんか?


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「相対か相対じゃないか,それが距離を決めるのよの日」11/18(木)

●真賀田四季博士がこんなこと言ってなかったっけ?(ちょっと違う) 相対性理論が邦訳されたとき若者がこぞって買い求めたという噂はほんとうでしょうか?理由は漢字から考えてください(最近優しいなあ).わたしの携帯電話(というかPHS)のリダイアルは履歴がかかってきた人のが表示されててそれが5人まで出ます.だから最近かかってきた番号が出てるわけですけどわたしはなんとなくここに好きな人の番号が表示されているのを好みます.昨日の夜友人が会社から何回もかけてきて1回ごとに違う番号なのでログが流されてしまってとても悲しかったです.たぶん,最近好きな人からかかってきているという事実が残っていることが大事なんでしょう.だからこっちからかけたログの表示はそんなに気にならない.わたしの思い通りになるから.わたしの行動の結果じゃなく相手の行動がわたしに与えられるっていうことが素敵なんですね.

あゆゆ(りゅうや)君の日記に書かれていた「それはつまり今僕らの間に流れた(と脳に錯覚されただけかもしれない)恋愛感情という電気信号であり、それによって流れ出すなんらかの脳内物質のもたらした感情変化だ」という言葉が胸に刺さります.それを幻想だと思いたくない弱いわたし.それを泡沫だと信じたくない脆いわたし.そうやって壁をどんどん作って自分が誰だかわからないようにしようと思っているうちに自分にも自分が誰なのかわからなくなってきちゃって言葉に埋没しているんだよね~~(笑).自分のこと好きだとか好きじゃないとかそーゆー判断は人に任せちゃってわたしはここにいるよ~~って大声で叫べばいいのかな,結局.んでもって誰かのことを好いてあげるのさ.わたしはあなたのこと好き.だからあなたもわたしを好きになってちょーだいって言えると良いのにな.そーやって世界は二人のためにあるんだよとかあなたと出会えたことが人生で最高の出来事だとかさらにはクサいセリフは全部あなたのためにあるとか言ってもらいわたしもあるんだなこれがまた.で,こういうときにありがたいのは愛されたい自分を恥じるなんて、ちゃんちゃらぷー!!(HPより引用)といってくれるお姉さん.ふぅ,かなり弱ってますね(笑

●わたしは実は人ごみが好きです.なぜって人が好き.人が集まってがやがやしててその中で一人ぽつねんしてると癒されます.人を傷つけるのが大嫌い.傷つけられるのも大嫌い.それじゃだめだって言われても馴れ合いの関係でいいです.好きといって壊れてしまうのが怖くて勇気が出せなくて黙っているわたし.あかん,矛盾しまくりやん(笑).ええ,複雑なんです(爆).ということで今日もミスタードーナッツへ人に触れに行きました.もうすぐ2個目のスケジュールン2000がもらえそうです(爆

●よく知らないんですけど世はミイラがどうしたとかで騒いでいますね.思うのはあれを理解できちゃう自分がやだなってことですネ(笑).原発は危険だと言われるといやぁ交差点近くに住んでるほうが100倍危険やでぇとか言って遺伝子組替え作物は危険だと言われると十把一絡げかいっ!とか思うくせにミイラをまだ死んでない!って言われるとまあ原理知らんから可能性はいまんとこあらあなとか思っちゃうんですよね~~(笑).こんなとんでもないわたしに同調してくれるありがたい友人いすらとSelenに感謝(爆).H2ロケットの失敗は残念ですね.ただのロケットならよかったんですけど商用というのが痛いところか.これで数年は日本のロケットは売れなくなる.無駄になった税金を返せと言いたいところですが宇宙開発のためならあと10000円出してもいいです(なんやそれ).


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「愛し愛されて生きるのさの日」11/17(水)

●そ~れ~で~ライフイズカミンバック♪とか口ずさみながらバイクで走りまわる.良い日ですネ(笑).そういえば先週エリック・クラプトンのライブを見に行ってきたんですけど,よかったです^^ 友人が見にいけなくなったので代わりにいっただけでクラプトンは知らなかったんですけど(^-^; でもけっこう知ってる曲もあったしとても良い曲ばかりでした.なんというかふわっとしたパウンドケーキのような感じ.わかりやすい比喩でしょ(またはありがちな比喩ともいう).ま,わたしに芸術の感想を述べさせようというのは間違いなわけで.なんでそんなこと思い出したかというと今日も相変わらずミスタードーナッツにいっててそこで流れてたから思い出しただけなんですけどね.誰かに今日は行かないと言った気もしますがたぶん気のせいでしょう.音楽ってでもいいですよね.何がいいかとかどういうとこがとかそんなこと考えなくても感じられる.無条件というのはありがたい.ほんとうはどんなものも無条件で現れているのですけどわたしはあたまでっかちなのでなかなかそのまま額面通り受けとれないんですよ.そんなときは格言「良いものは良い」ということを思い出しましょう.

だいたい人間ってのはそうそう合理的にはできてないんですよね.放っておいてといいながらほんとうはかまってほしかったりさようならってのは追いかけてほしいときのセリフだったり.いやよいやよも、、、、これは違うか(笑).そーゆー言葉のうらっかえしを読んで読んでだんだん言いたいことを言えなくなってっていうのがわたしはあんまし好きじゃない.あんましとあんまりってどっちが正しいのかな?言いたいことはそのまま言うし言いたくないことはぜーったい言わない.だから好きだったら好きって言っちゃうんだよね.お子様でけっこう.ピーターパンシンドロームですから(笑).でも実際にはわたしも罠張って落ちてくるの待ってたりなんだけど.つまりまあストレートな言動に憧れてるってこと?とりあえず憧れてるってことは認めましょう.だから好きだったら好きっていう.しかぁし!世は大人中心でまわってるわけでわたしみたいなわがまま言いたい放題な人間はそうそう認められない.好きっていわれると強制されてるようでいやだって人もいるんですねえこれがまた.そういう人を好きになると困ったちゃんでもうなーんにも言えない.わたしのこのアクセルはどうすりゃいいんだぁ!!ってな感じで(笑).

と書いたところでこれがすべてうらっかえしなんだからわたしもひねくれてますねぇ(笑).言えっつーの.

●KAZと話してたときに大阪人は変と言われると喜ぶとかなんとかいってたんだけどそれは理解できちゃう悲しいわたしですけど(笑),そういや哲学してる人に共通で言えるのは「哲学はやって意味あるのか」というとそろって「役にたたないよねぇ(自嘲気味な笑い)」と言うこと.たしかにその通りなんですよね~~.他に健全なことなんていくらでもあるしよくもまあこんなわけわからんことやるもんだわと思います.こういうことが自嘲というんですけど(笑).このへんの「捩れ」も哲学的な要素を内包している気がするんですけどどういうことかというと「すべてを疑うことに意味はあるか?」という命題があったときこれは意味があるといえます.なぜなら「疑う」という行為自体は疑っていないからです.「疑うことを疑う」ことはできないです.これにナンバを振って「疑うAことを疑うBする」としますけどそうすると疑うAという行為を見るために外部存在の疑うBを立てたわけですけどこのBを立てる行為は疑われていない.そうしたことを繰り返したときに暫近線を「見て」そこから疑い得るという自己の見地を発見し疑えないものとしての「コギト」を見つけるわけです.思ってる自分だけは疑えない、、、、っていうデカルトのあれですね.しかし逆にいうとコギトだけ残ってしまう限り懐疑論はなりたたない.全部疑いきらないといけないわけですから.疑っていることは了承できる.故に懐疑論は成立しないのです.懐疑論は成立しないと言われたときにはじめて成立する.独我論も似た構造を持っていて,「世界にはわたししかいない」といわれたってわたしはそれを承認できませんからそれを否定するわけです.ところがわたしが「いや,それはおかしい.世界にはわたしもいるよ」といった瞬間に世界の系は収斂し独我論は成立してしまう.しかしやはりこうして文章に成立したことを書き記そうとするとそれは誤解され独我論のありえないことの証拠だけが残る.懐疑論も独我論も否定されたときにだけあってそのことが見られたときには消え去ってしまうという自己否定的な考え方なのですね.エムです(笑).

●わたしのお兄ちゃんはかなりすごい人で通っていた中学校では10年近く経ったいまでも名前が知られているくらいです.どういう風にすごいかというと,職員室前廊下バイク乱入事件(爆)とか(わたしが通っていた頃はまだ跡が残っていた),体育館屋根ぶち抜き事件とかが有名です(笑).おかげでわたしの中学校生活は安泰でした(爆).体育祭のときとかお兄ちゃんの学ラン借りて応援団なんかしちゃったりして(笑).わたしの背だと引きずっちゃうんですけど,だいたい引きずるような学ランてわかりますか?(笑) もっと笑えるのが,わたしがとある事情で警察にご厄介になったとき名前聞かれて言ったら,警官のおじちゃんが「お前,もしかして慎(お兄ちゃんの名前)の兄弟か?」とか言われてほのぼの昔話しちゃったことですね.「あいついま何してるん?お前の兄ちゃんにはそりゃあ手ぇ焼かされたでぇ」とか言って(笑).そんなお兄ちゃんも今じゃ一家の長.娘の愛瞳と一緒に団欒する毎日です.

体育館といえばわたしは高校の体育祭をなくしちゃいました(笑).何をとち狂ったのか生徒会役員とかいうのをやっていて,わたしがやりたくないというそれだけの理由で学祭委員会に議題提出してそれも出席の悪いときに突如で強行採決で無理やり押し通したという(笑).しかし嫌いな人は多かったので民意に沿っていたつもりではあったんですけどね(笑).わたしの高校は運動がまったくだめで野球部なんか勝ったことがなくて二十数人いるのに8人の野球部に負けたという伝説まで残っています(笑)(一人は文化部だったとか).でも自慢も一つ.宝塚の紫城ルイさんはわたしの部活の先輩で,会ったこともあるのです( ̄^ ̄) わたしのあだ名が美女草というわけのわからないやつなのもその部活のせいです(爆).

あ~~長ったらしいわりにはすかすかな文章群だσ( ̄∇ ̄;)


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「自覚のあるなしは雲泥の差ですの日」11/16(火)

●大河内泰治さんの言葉です(京極夏彦:百器徒然袋―雨―鳴釜に収録).この直前の文章をあゆゆ君が日記で使ってますね.まあこれは正しいんですよ.実際.でもね,それを知っているわたしはこの言葉を利用してしまうわけで.例えば世間様では思ってるだけじゃだめだって言われるでしょ?だからこのことには2段階の飛躍があって自覚なし→自覚あり(行動なし)→行動ありという構造になってると思うわけ.その間には大きな差が認められると思うんですよね.自覚のなしありの差は心的差異で行動のありなしは身体的差異なのかな.心的状態ってのは自分の生き方には重要だけど「心」というのは言葉で表そうとする限り大きな構造(社会とか)に組みこんで位置付けなくちゃいけなくて,そのためには行動を要請するんですよね.で,こうやって考えたときにはそれはただの心的な状態が自覚されただけなんだけどこうやって日記だろうがなんだろうが書かれて公開されたときに何か変化あるのかな,と思うわけです.そうするとわたしはつい「小さな変化を引き起こせたんじゃないのかな」と考える.だけどそう考えた瞬間に行動は心的な自覚に逆戻りしちゃうんだなこれが.だから行動っていうのは「行動」という地点に到達することじゃなくて心的状態(「しんてきじょうたい」という言葉をわたしは一般的でないイントネーションで発音するのですがそれは関係ないので割愛)の自覚から体外(対外)を目指して投射する状態,「ありつつある」であるべきなんじゃないかな,と思います.「好き」という言葉に捕らわれちゃいけません.「好きになりつつある」という動線の関数こそが自らの心的状態を行動へと開示し得るのです.そしてその関数を知るべきでもない.知ろうとするベクトルのみがきみを向上させます.(たぶん全部独り言)

とかそんなことをミスタードーナッツでコーヒー飲みながら本を読みつつ考えていました.ラッキーカード10枚でもらえる手帳のことを「スケジュール2000」と書いていましたが正確には「スケジュールン2000」だそうです.

●精神が固まっていないお子様なわたしですが,わたしを壊すことがすごいうまい人が二人います.一人は京極夏彦氏.もう一人は友人Hです.接触するたびにわたしを粉々にしてくれますね.それだけわたしに影響があるということなんですけど.とくにHなんか出会ってからまだ半年なんですがたぶんわたしがこういう性格であるのはHに負っているところが大きいです.見事なくらい目隠しされていると思います.まあわかってはいるんですが、、、、ってことで改善する気はないです.夢の中にいるときに夢から起きようとはしません.自分から動くと良い方向にいかないことがなんとなく最近わかってきましたからね.待つのが好きです.放置、、、、まあいいや(笑).

半年といえば大阪オフで話してたことなんですけどわたしは哲学的な本を読み始めてからまだ半年.それ以前はソクラテスもニーチェもカントもデカルトの「コギトエルゴスム」の言葉の意味も知りませんでした.ましてやウィトゲンシュタインなんて聞いたこともなかった.それまでは物理の本を読むのが好きな普通のお子様だったんですけどね(反論は認めません).まあわたしがわたしであることの不思議さとか嘘をつくことができるという言語の矛盾性とかには興味がなかったわけじゃないですけどそれを哲学と呼ぶなんて知りませんでしたね.いまではじゃあ何を哲学と呼ぶのか?なんて命題をつい考えてしまいますけど(笑).だけどいまだにショウペンハウアーとかソシュールとかフレーゲとかフッサールとか知りませんね.何言ってる人なんですか?(書いた書名くらいは知っていますが) 哲学書を読もうとするたびに思うのは日本語で書けやということ.統覚の分析的統一は何らかの総合的統一を前提としてのみ可能なのである(純粋理性批判)とか言われたってわかんないって(^-^;

●舞台でいろいろしてたせいで言葉をいまでも間違えますね.SSって言われるとサービスステーションではなくてサイドサスのことかと思いますしサスと言われるとサスペンションではなくてサスライトだと思うし人形といわれればまず先に人形立てを思い浮かべますし色はゼラのこと.ゼラってのは色セロハンですね.CFって言えばクロスフェードで,トムキャットっていうのはF14ではなくてトラスのこと.正確には吊りトラスを扱っている会社にトムキャットという会社があるのです.おかげさまで部屋の床にはなぜかバミってあって立ち位置が決められています(笑).

いわゆる業界用語ってやつぅ?(爆)

●こういうこと言うのはわたしの趣味ではないのであんまし言わないようにしようと思っていたのですけど(と前振り),わたしは暗黙の了解ということの使用を強制します.言わないでもわかってくれているだろうとわたしが思っていることを踏みにじられるのが大嫌いです.もちろんそうした人はそのつもりはないのでしょうしわたしがわがままを押しつけているだけなのですがそれでもだめです.勝手にづかづか入ってきていると感じてしまいます.言わないでもわかってください.わがままです.だめなら,わたしの片方は消えようと思います.わたしも反省していることはあります.ごめんなさい.


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「おやすみkissとお目覚めkissはどっちがいいかの日」11/15(月)

●一日中たまりにたまったメイルを処理してすごす.一部を除いてほぼすべてに返信.返ってきてない人がいたら教えてください(笑).業務的なのはあとにしてなるべく友達関係なのを先にして.

週末の旅行疲れを癒すには最高の一日でした.我ながら自分の単純さを可愛くもまぬけだなあとも思う.最高という言葉は最高のときだけに使おうと思います.自分の弱さを嫌悪したくないのですがそれは逃げでしょうか?答えを,教えてください.

あしたから日記再開します.読んでくれている方がいるということに感謝.


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「別れは突然にの日」11/14(日)

●起きたのは昼過ぎでわたしが寝てた間に遊びに来てた友達は帰った模様.空模様をくうぼさまと読んだ友達がいます.大海原をだいかいげんと読んだのも同じ人.毛沢東をけざわひがしと読む議員よりはましか.ということで二人でビデオを見ながら雑談.これも雑なのかどうかが不明ですけど(笑).エリザベス杯はもちろん落としたようです.勝ったらおごってもらおうかと企んでいましたが杞憂に終わったようです.とか言うと日本語としておかしいといわれるので注意しましょう.

16時に友達の家を出て17時に梅田から電車に乗る.岐阜まですごく速く走ったので名古屋まで近いな~と思っていたら岐阜駅で電車がでない.なにかと思ったら人身事故により今しばらくお待ちください,というアナウンスが.1時間近くまたされました.山手線は多いので処理が迅速らしいですね.どっかの国では黒い橋を緑に塗り替えたら自殺者が減ったとか.ありがちな話しではありますけど.

電車が止まっているときにつらつらと考えていたのは電車と人生の比喩.電車が少しでも速く走ろうと思ったら人を降ろして走ればいいわけです.だけど誰も乗せないで走る電車なんて望まれないわけです.長生きしようと思って一生健康食を食べつづけ適度な運動をして余計なことをまったくしない.そうすれば誰よりも長生きできるかもしれませんよね.だけどそんなことしようとは思わない.つまり,電車は速く走るためにあるのではなく人を乗せるためにあるのです.あなたは何を乗せて走っていますか?

電車の窓からみえる黄色い看板を見ながらプロミスは黄色い看板だけど黄色い看板はプロミスじゃない.ところが黄色い看板は派手といえるけど派手なのは黄色い看板だとは言えないな、、、、とか考ました.えながら帰路につき

出会ったすべての人に感謝^^


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