Monday, October 18, 1999

ログ07('99 10/17~10/25)

サルモネラ共和国な日々

そこどこやねん。


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「む~かし~のと~もは~今も~ともぉ~、俺とお前と、だいごろお~~の日」10/25(月)

●CGIの設置方法がやっとわかりました。といっても無料でDLしてきたCGIファイルをちょっとだけ触るだけだったんですが。協力してくださり、親切な助言を与えてくださったKAZ、なかじ両氏に重ねて感謝申し上げます。わたしからはなにもできないのでただただひたすらに感謝です!(^▽^) 小学生のころ、わたしの家の近くにはデコトラ(デコレーショントラック=電飾トラック、らしい)に乗っているおじさんがいたのですが、そのおじさんのあたまはそりゃあ見事なものでした。わたしたちは親しみの意を込めてそのおじさんを「スターボーズ」とか「デコトラあたまのおじさん」と呼んだものです(もっと直接的なのだと「あたまもぴかぴかおじさん」とか)。名前付けたのはわたしなんですが(笑)。いっつもにこにこしてて気にせず遊んでくれてたのですが今考えるとすっごい失礼な子供だなあ。なぜにこんなことを思い出したかと言うとそのおじさん、いま病気で入院していてこの前お見舞いに行ってきたからです。はやくなおしてまたお話できるようになってほしいです。

●すっごい意外なことに、KAZ君がなぜに講義が行なわれないんだ、と詰め寄ってきました(多少脚色)。そんなこといってくれるなんて(およよ、と泣き崩れる)。ですので後日、と思っていた話題を先に書いちゃいます。

自己言及の問題ですが、AがAについて語る行為、つまりAに範囲の指定と言う機能が付随していた場合に不完全な部分が発生します。例えば「定義の定義」や「意味の意味」といったことです。これらは原理的に説明することができません。「定義の定義」をわかりやすくナンバし、「定義1の定義2」とします。すると定義1を説明するために使われる定義2を定義するために定義3が定義される必要がでてきてしまいもちろんそれは定義4で定義されなければいけません。「意味の意味」もまったく同じ形です。ところがここでこのことに気が付いてください。わたしは定義を説明するためにはそれを定義する必要があると定義と言う言葉のまったく正しい使用法を行なっているではありませんか!もうちょっと別の言い方してみますと、1があった場合それを2で割ります。答えは0.5です。ところが2で割るとはいかなることか?という質問がたつと1をずっと2で割り続けなくちゃいけない。最終的な答え、0にはなりません。しかしlimitが0だ、ということは知っているのです!

問題:もっとメタな考え方をするとこのことは「すべての考えは言葉であり言葉を言葉で解釈することは最終的には叶わぬことである」という言説に繋がります。これがどうしていえるのか、またこれからどのようなことが考えられるか答えてください(笑)。完全な解答はありませんが(というか完全な答えはない、ということを示しています)。

まあヒントみたいなものですが。

「われわれにとっての世界は、それがどれほど貧弱なものであれ、限界をもつことができない。世界はその外側にいかなるものをももたぬからである」バートランド・ラッセル(数学者・哲学者)1872~1890

というかこれをヒントにできたらもうわかってる、ということですけど(爆)。提出期限はありません。解答もありません。この問題を解くとなにかあるわけでもありません。ただあなたが興味あるなら世界は開かれるでしょう。そのために、わたしを使ってください。

●KAZ君で思い出しましたけどわたしの小学校からの友人に一真(かずま)君と言う人がいます。いまでも覚えているのは小学校2年生の時に学校の階段でこの世界はわたしの想像なのか一真君の想像なのかそれともほかのなにかの想像なのか、ということで議論したことです。いまでもそのときの階段のしみなどの状況まではっきりわかります。少数の話の合う人の一人でした。いまでは1年に1回会うかどうかなのですけど。その一真君に1度名前の表記をKAZMAにしてはどうでしょう?と持ちかけたことがあります。甘味あっさりフルーツで却下されました(笑)。


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「愛すべき友人に囲まれての日」10/24(日)

●昨日の日記(じゃないけど)についてtoshi君からありがたい解説を頂いたので掲載します。

「綺麗なものは、手に入れようとしてはいけない、手に入れようとすると、それは得られず、幻想は崩れ、落胆を手にすることだろう。」 toshi(1980~)

わたしの真意をそこまで汲んでくださったことに心から感謝の意を表します(ホントかよ)。ついでにだいたいの方はもう昨日の日記見られたようなのでちょっとしたバックボーンを。あの話、まことに遺憾なことながら、実話をもとに構成されています。これ以上聞かないでください。今日の夜は論理学の話題についての講義を行ないます。遅れないように。出席取りますから(笑)。

●鬼のように眠いですが、鬼が眠いのかどうかは知りませんね。論理学の講義ですがノートに書き写しながら見ていると矛盾点を発見。これを直さないと講義ができません。ということでまた今度。矛盾点は自己について語ることがなにかしら意味を持ちうるように思えるのを解明しなければならない、と言う点でです。大きな矛盾じゃないと思っているのでそのうち修正が効くでしょう。今日は夕方から近所の近くのファミレスで友達と待ち合わせしていたので鬼起きして着替えてぶーん。食後にチョコパフェなんか食べちゃったりしました。この頃甘い物好きになってる。困ったことではぜんぜんないのですが。話はとてつもなくとりとめのない雑談。思うこと思わないことを語り合ったといいたいところですがウィトゲンシュタインが思うことのできないものを語るわけにはゆかないと言っているので思ったことしか語りませんでした(笑)。

●最愛の観葉植物のつぁらとうすとら君ですが、彼は残念ながら一年草なのでもうすぐお別れです(;_q) もう残った葉も小さくなり、時がくるのを待つばかりです。つぁらとうすとら君、短い間だったけど、ありがとう。あなたから、勇気、希望、情愛をもらいました。残った時間、わたしはあなたに頂いた愛を少しでもお返しできればと思います。本当にありがとう!!


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「少女の口からは薔薇色のため息が漏れての日」10/23(土)

●K国のお姫さまはお星さまを見るのが大好きでした。まいばんまいばんごぜん2時ごろまでおきていて星をながめています。

「神さま。なぜお星さまはあんなにいっぱいあるのに、わたくしにはさわることができないのでしょうか?」

そう言ってお姫さまは手をのばしては星をつかもうとするのですが、もちろんさわることは叶いませんでした。ある晩、いつものようにまどから空を見上げているとちへいせんにかがやくぶったいがみえました。とおくてよくわかりませんがそれはふつうのお星さまよりはずっとずっとちひょう近くにあるようです。

「もしかしたら、あれは神さまがわたくしにくださったお星さまかもしれないわ」

お姫さまはそう思いました。でもまだわかりません。そこでしんぎをたしかめるべく口径100ミリの大きなぼうえんきょうをもちだして見てみることにしました。しかしその光りはでんせんのかげに入ってしまいうまく見ることができません。そしてお姫さまはかがくてきなかんがえが好きでしたので

「あれはもしかしたらでんせんがしょーとしているのかもしれない。大きなでんせんではたまーにそういうことがあるって聞いたことがあるわ」

とかんがえました。しかしろんりてきにかんがえてみてもいま一つ決め手がありません。そこでお姫さまはだいたんにもお城を抜け出してじぶんの目でたしかめてみようと思いました。お城を抜け出すのはたいへんです。なぜなら至るところにしゅえいが立っていて、夜をてっしてみはっているからです。でも、お姫さまはぬきあしさしあしで歩いていって、門までたどりつきました。門番はうまいことに居眠りしています。

「まあだらしのない。あとでお父さまに言いつけてやらなくっちゃ。でも、そのおかげでわたくしが外に出られるんだし、言いつけたら抜け出したことがばれちゃうからないしょにしておいてあげるわ」

お姫さまはこうまんちきにもそう思いました。しかし門がもんだいなのです。なぜなら門は少し古くて、開けるときにぎーぎーと音が出てしまうからです。大きな音を立てたら門番がおきてしまうかも知れません。そんなことになってお父さまの耳に聞きおよぶところになったらふぁいあーせっかんをくらってしまいます。そこでお姫さまはみょうあんを思いつきました。お姫さまのあいけん、ぱとらっしゅをほえさせてその音にまぎれて門をあけてしまおうというものです。強引です。お姫さまは門番のちかくでねむっているぱとらっしゅを起こしてくさかげまでつれていくと思いっきりしっぽをふみつけました。ぱとらっしゅはわんわんほえました。そしてお姫さまは門まで走っていき門番がびっくりしてとびおきてぱとらっしゅのほうに気をとられてるあいだに抜け出すことにせいこうしました。

そこからはもうしょうがいはありません。お姫さまはとびはねるようにしてまっすぐ光りが見えたほうへとすすみました。とけいでじかんをかくにんしながらお星さまと方位をてらしあわせればまちがうことはありません。お空いっぱいに見えるお星さまは窓から見える小さな視角180度のお空とはぜんぜんちがいました。

「これがほんとうのお星さまなんだ。とってもきれいだわ」

とお姫さまは思いました。でもいまはお星さまに見とれているヒマはありません。はやくあの光りのところへ行かないとにげてしまうかもしれないからです。ときおりぜんぽうに光りが見え、だんだんちかくなっているのがわかりました。そして小1じかんも歩いたときついに光りのもとにたどりつきました。

そしてそこでお姫さまの見たものは!!、、、、ラブホテルの電飾でした。

(なお、このあとお姫さまはお城にはいるときに門番に見つかってお父さまにふぁいあーせっかんをくらいます)


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「最高に高級な時間の日」10/22(金)

●そろそろ笑点は飽きたので削除です。昨日からネットをうろつく気分がおきません。それは、久々に論理哲学論考を読み返したせいでしょう。あまりに、遠すぎる。かの地へと辿りつこうとする努力だけが自らの精神に己を見出す。わたしは精神のバランスをとる機構を兼ね備えていますが論考を読むとそのバランスが邪魔なものに思えてきます。一つのものへと志向する心のあり方が多様を生み出すのです。

言葉は伝達を目的とする手段である。伝達とはAにおける状態をBに移し替えることである。それは必ずしも成功するとは限らない。Bのある場所によって形式の一致が見られない場合もあるからである。目的とはAをBに伝達しようとするように先行きを決めて動く規範である。それは確固としたものとは限らない。手段とは目的を達成するために暫定的に使用される道具である。それはより良いものがあるなら捨て去ってしまって構わない。言葉によって何か伝わることがあるとは妄想であるなどとは思ってはならない。我々はそれ以外の手段を持たないのだから。言葉以外とはなにか意味を持つ言葉なのだろうか?言葉の意味とは使用された場所によって逐一指定される。どこかに見えない辞書があるなどとは思ってはならない。よって言葉を使うことは本質的に無自覚であり無批判である。そうでなければ我々はただの一言も話すことができないからだ。言葉を正しく使うつもりが少しでもあるなら言葉とはなにか?と思わないことだ。かかる方便によって言葉は無意味なものであると自己回帰的に悟るのではなく最初からそうしたあり方をしているのであると悟らなければならない。それが可能かどうかは判断の内ではない。

●と、まあ書いてみたはいいけどまたまたつまらないなあモード。なんでこんなにわたしは移り気なんでしょうか(苦笑)。野球って基本的に投球位置ってキャッチャーがリードするんだよね。確か。そうするとさ、キャッチャーの心理としては単純化すると、「このバッターは内角が苦手だから外角に投げよう。でもそれくらいわかってるだろうから逆をついて内角だ。しかしこいつならそこまで俺のこと見通してくるだろうからそこでここはやっぱり外角だ。でも俺のこと見通してるということは外角でくるということがわかってるわけだから内角にするべきだろうか?、、、、」となってしまうわけですね。ずっと決着が付けられない。

これは実は「ぬきうちテストのパラドクス」と言われるものと同形問題ですね。このパラドクスは簡単に言うと、「君が明日テストが行なわれると思うならぬきうちにならないので行なわないが、しかし行なわれないと思うならテストを行なう」というものです。あなたがもし担当教授にこう言われたらどうしますか?あなたが明日テストがあると思って勉強するならテストは行なわれない。しかしあると思ったからにはテストが行なわれないことを知っている。行なわれないことを知っているということはテストはある、ということです。このパラドクスを解くことができますか?

答えは簡単。その教授に「明日はテストがあるのですかないのですか?」と聞けばいいのです。教授は答えられません。どちらかを答えてしまえば自分の出した問いに矛盾するからです。つまり、このパラドクスは生徒に矛盾があるように見えて実は教授自身も矛盾していた、という関係的、相互言及的なパラドクスに陥っているのです。

でも、バッターに向かって「君は外角を狙ってますか?内角を狙ってますか?」とは聞けないしなあ(笑)。あ、そうそう。じゃんけんで「ぼくはパーを出すからね」と前もって言うのもこれに似た効果を持っています。こちらは三つ巴ですからもうちょっと複雑になりますけど。解説すると非常に長くなるんで友達捕まえてやってみてください。永遠に出す手が決まりませんから(笑)。


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「地球にある、あるアルゴリズムに対するアフォリズムの日」10/21(木)

●A=Bとはいかなることでしょう。彼は前川です。彼(A)は前川(B)です。気付くべくはAはBではない、ということです。Aにおける論理的形式の一致として指定された条件を顧みるにそれはBと呼んで差し支えない、と読み替えるべきであるのです。それは、彼という存在の指定条件の一つとして名前を選ぶならそれは前川である、ということでありましょう。つまりなにかしら条件を指定しない限りAがBであるなどということはないのです。いや、ありえない。言語におけるレイヤ設定の働きは無意識ですがそのレイヤの上でAはBなのです。それを考慮するなら「AはBである」とは言えないはずです。また、しかし、A=Aとは語られえる言葉でしょうか?AがAなのはAがAであるからであってそれ以外ではないからです。ならばA=Aはなにも語らない。

では、「私=私」についてはどうでしょうか?この問題には前後環境があるのですが、それは「君=君」、「彼=彼」(つまり君は君です、彼は彼です、という無意味な語り)が違和感なく受け入れられてしまうと言うことにあります。しかし私が私であるとはなにかもどかしいような落ちつかない言葉の響きです。これは、上記の言葉のレイヤの設定方法に問題があると私はにらんでいます。私は君を経験していない。しかし私は私を経験しています(経験であって、断じて「知っている」ではない)。私は経験により私のみが複雑な構造であることを知っています。ですから経験していない人々のことは「君=君」と言えますが経験している自分については私の存在が不可分であるように思えるために違和感を覚えるのだと思います。断定はしません。

そうして問題は「私」に移ります。「私は私ではない」(私≠私)は否定される条件をあまりにも多く含んでいるのにも関わらずつい肯定してしまいそうではありませんか!「私」とは他の誰でもない、ただ一人の、ここに今いる全人の代表たる「私」のことですが、そのあまりの独在的存在が故に「私」などと呼ばれることを嫌うのではないでしょうか?「私」とは私が他者を介在させるための手段でしかない記号です。私は「私」という記号で表せるほど単純な存在ではない!私は、「私」でなくとも構わず、また他の誰であろうといつの時代に生まれていようと構わなかったがしかし私であることしか考えられず今以外にいたとはまったく想像の他であるような絶対的(ゆえに相対的)であるような、でしかない、なにかなのです。

「私はCと呼ばれる」ならCは私に与えられた一つの条件指定です。それは身長体重、髪の色長さ、瞳の色、肌の色、サイン、血液型、DNA、それらとなにも変わらない。しかしそれは私が私であることとはなんの関連も持ち得ない。私がもっと身長が高かったら、体重が軽かったら、瞳が黒かったら、肌が褐色だったら、字がきれいだったら、A型だったら、(DNAが違ったらなんて言うんだろう?)私でなかったでしょうか?私かも知れないし、私じゃないかもしれない。しかし事実はここにいる私が証明している。それ以外であるとはいかなることか?それはなにも意味しない言葉でしょう。私が私であるのは考えられうる何にもよらずに私であるからです。その条件指定は時間位置かもしれないですし、空間位置かもしれない。しかしそれはまだわからない。それを知ろうとする探究だけが己を心に開示するのです。

私は君を知ることは叶いません。君の思考を経験することは出来ませんし内的ななにか、とは私のみにあり得るものだからです。ですから、僅かな軌跡を辿るために有効な手段はただ一つ。語ることです。行動を共にする。寝食を共にする。生活の形式をできるかぎり一致させること。それが語られうる言葉をより有効にする手段。言葉が伝わるのは言葉のルールが一致する者の間でしかない。そのために私は私に語ることはできない。自己言及が意味を持ち得ないことは一昨日述べた通りです。私が私であるために、君が君であるために語りつづける努力が必要なのです。

●あまり意味のある文章ではありませんが。


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「心に素敵な花束をの日」10/20(水)

●昨日は日記ちょっと長めなんですけど、何人かに見てもらいました。意見がかなり違います。まず、ドラえもんの話が面白いといって下さる方。それから不完全性定理の話が面白いと言ってくれる方。笑点の音楽で笑ってしまった方。そして不完全性定理について話をしているにも関わらずバックに笑点が流れるアンバランスさがおもしろいと言う方。実は最後のアンバランスさがわたしを理解するのに一番近い考え方です。わたしの中ではドラえもんの話も不完全性定理の話も笑点の音楽もまったく同じように面白いのです。というか同じように面白いと思うからこそここに書いてる。ちょっとイヤミな言い方ですけど(シェー!)ここらへんがわたしと普通に人との違いです。あ、「普通に人」ってのは最近偶然見つけた(というか間違えたんだけど)面白い言葉です。わたしと一番気が合う人は、球の体積を微分すると球の表面積になる、ということとスネオの姓がなぜ骨川だったり滑川だったりするんだろう?ということが同じように面白い話題だ、と思える人ですね。少数ですが、います。またどちらかでも面白いと思う方ならお話を共にしたい、と思います。また、そんなのどうでもいいジャン、と思うのもわたしの中ではアリです。ここまで言うとさすがにいないんですが(笑)。

●上のは言わば、「私達の間では政治も金魚の養殖も甘味処の看板娘の愛らしさも同じ土俵で論じられた」(姑獲鳥)といったところでしょうか(笑)。実は今日は朝までずっと起きててそのまま日記書いていたのです。ですから一日中まったく役に立たない人間でした。役に立たないのはいつもなんですけど今日はそれどころか動かないから人の仕事の妨害になる(笑)。CGIがどうしてもわからないです。おっかしーの。説明通りにやってるんだけどなあ。人づてに聞いた話ではこのプロバイダ、interQはどうもCGIを使えると言いつつかなり制限しているらしいという噂を聞きました(日本語おかしいな)。でも、しんぎはわかんないです。もしそうだったらかなり無駄な努力をしてるのかも。今日はすっごい失敗しちゃった。曜日を二日も間違えてて、てっきり金曜日だと思ってました。あ~明日は休みだ~~って気分でいたのですっごいがっくし(笑)。論理学についてちょっと書きたいことがあるんですが今日はもう寝るのでまた明日。


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「ドラミ、ドラミ、ドーラミドレ~♪の日」10/19(火)

●最近睡眠をきっちり8時間ほどとっています。寝るのは2時。こらこら、計算しないように(笑)。ドラえもんがなぜあんなにいろいろ道具を持っているのに不良品なのかわかりますか?ドラえもんの時代では多分道具の使用が規制されているのでしょう。でなければすぐに戦争が起きてしまいます。それかそれを知っていて皆が自制しているか。つまり誰もがそれを熟知している。だからこそ日本誕生では支配するもの(ギガゾンビ)が悪とされるのです。しかしということは、道具を使って過去を変え、あまつさえしてはいけないことと言いつつ死んだものを生き返らせるドラえもんは超極悪人ですね。暗黙の了解がわかっていない。アシモフの(だったっけ?)ロボット3原則が入力されていないロボットくらい危険です。ドラえもんの頭にはのびた君の人生を変えることによってセワシ君の人生を良くしようと言う使命しか見えていないわけです。はやくドラえもんがマッドロボットとして廃棄され、セワシ君が時空法(だったっけ?)違反で捕まることを祈ります。マジにとらないでね(笑)

●おぼえたてのゲーデルの不完全性定理について適当なわたしなりの解釈を。例えばわたしが「1+1=3」だとずっと思っていたとしましょう。わたしがそれを正しいと思うかぎりそれは無矛盾であるわけです。つまりわたしはそれを自分で間違いだと気付くことができない。算数のテストを受けたときに間違いだと指摘されてはじめて気付けるのです。これは、システム内に置けるチェック体制が不完全でありそのシステムが外部のシステムにチェックされたときに矛盾が見つかる可能性があると言うことを意味します。こういうことです。人類は今「1+1=2」だと思っているわけですがこれが矛盾しないということは完全に証明はできないのです。もし人間の数理体系そのものに矛盾が含まれていても人間にはわからない。人間全員が間違えていたら誰もその間違いを正すことができないのです。このことを、ある公理系が無矛盾ならそこには必ず正誤の判断のできない部分が含まれる、と言います。多分(笑)。こっからはたんなるわたしの想像なんですが不完全定理は自己言及性の問題でもあると思う。嘘つきのパラドクスが不完全性定理では良く使われるんですけど、「彼は正直者だ」「彼は嘘つきだ」「私は正直者だ」はシステム内の発言であり、「私は嘘つきだ」がシステム外の発言になるわけです。これは自身についての判断がシステムエラーになることを示唆しているのかな。じゃあなんで「私は正直者だ」は自己言及なのにシステム内なのか。自身がNだったときNと答えるシステム(正直者)はNで答える。ところが自身がRだったときRはNと答える(嘘つき)。これではっきりしましたね。どこにも自身はRであると答えるシステムはないのです。でも数式上は「私は嘘つきだ」があり得てしまう。これが嘘つきのパラドクスの正体です。多分(笑)。間違いがあったら教えてください(笑)。

ところでウィトゲンシュタインは「すべてを疑う疑いがあったとしても、それは疑いではない」と言いましたが(この前引用したやつだね^^)、わたしはこれと不完全性定理は深い関係があるのではないかと疑っています。どういうことかというと、不完全性定理では上で書いたように完全に無矛盾であると言いきる根拠はない、ということです。これは裏を返せばどこまでも永遠に疑い続けることができる部分が存在する、ということを示しています。上の例えでは「人間の数理体系そのものに矛盾が含まれていても人間にはわからない」というところです。ウィトゲンシュタインはデカルト的な懐疑論に否定的でした。というのもすべてを疑ったところで我々はもうとっくにそれを了承して使用しているではないか、何をいまさらそれを疑うことがあるのだ、という考えであったからです。この身体が本当に存在しているのか?と疑ってみてもわたし達は普段それを思うことがあるでしょうか?(わたしは思いますが(爆)) そんなことにはなんの意味はありもしない、ただそれを無批判に受け入れるのが言語の使用と言うことである、というのがウィトゲンシュタインの言い分です。これを不完全性定理に当てはめて考えると、この数理はまったく正しいように思えるがある部分においてどうしても論理的に真偽が確かめられないところがある、はたしてどうしたものか?ということに対して、だったらなんも考えずにそのまま使えや、と言っているのではないか?(笑) またこうも言っています。「仮に言語使用の変化が共同体全体にわたって体系的に起こったとしたなら、いかなる変化も見いだされないだろう――見いだされえないからである」

一つ付記しておきます。ウィトゲンシュタインは自身の論理によってすべての哲学的問題は無意味なものであり考慮する必要はない、と言っているのだと思います。ならばわたしがこうしてウィトゲンシュタインに哲学的命題を求めようとする行為はまったく反ウィトゲンシュタイン的と言えるでしょう。哲学についてなにも考えず、日常を暮らす人はそれだけでウィトゲンシュタインの教えを忠実に守っているのです。だからこそ、哲学的命題は「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」L.ウィトゲンシュタイン(1889~1951)


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「なるけまればんがかぴかっぴの日」10/18(月)

●だいたいおんなじ毎日 それでまあそれなりにOK♪だけどなんとな~くむなしくなるだろう♪なわたしですが。

ひさびさのろくでもない劇場。

N之園M絵:「先生……、常識って何でしょう?」

S川S平:「常識とは何か、と考える瞬間にだけ、人間の思考に現れる幻想だ」

     「普段はそんなものは存在しない」

けっこう真面目っぽいね(笑)。また百鬼夜行します。(昨日の日記参照)

●「わたしはありつつある」。これは神がモーセに対して民にこうわたしの名を言いなさいと言った言葉です。わたしは宗教はおへちゃなので適当に分析してみましょう(神罰が下りませんように)。わたしはありつつある、とはあってないもの、とも解釈されます。これはつまり神は己が明示されることを嫌ったのです。なぜでしょうか?それは十戒の中にも書かれています。「汝、像を造ることなかれ」「汝、神の名をみだりに呼ぶことなかれ」。キリスト教の神は具現化されることを極端に嫌うのです。なぜならば象徴化されればそれは攻撃の対象となるからです。見えないものに対しては攻撃は加えることができません。それに対して信仰するものは見えなくてもお構いなし。心の奥深くに秘めておくことができますから。ですからキリスト教の神は滅多なことでは奇跡を起こしませんね。奇跡を乱発して信者を集めようとする他の宗教とは一線を画す理由はここにあるのです。簡単に言えば神様の民事不介入と言ったところでしょうか(笑) 半分冗談です。


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「きみのうまれた星だよ……ぼくらは同じ地球人じゃないかの日」10/17(日)

●見事に明るい気分にさせてくれますね(笑)。おーい山田君、ざぶとんもってけー。D君のiMacですが修理にあと2週間かかるそう。MOを買った直後にクラッシュして、バックアップを取れなかったらしい。MIDIデータもすべて死んだとか。泣くに泣けませんね。はやく直してくれないとそろそろわたしもネタ切れだ(笑)。なかじ君が、夜チャットをやめるとかほざいて、数分後に否定し、さらにまたもや寝落ちしてました(笑)。懲りない人ですねぇ。toshi君は真面目に3時には落ちるから偉い(笑)。わたしはもちろん朝までなんですが。名古屋もそろそろちょっと寒くなってきましたね。すこし厚着しながら起きてました。かず君に、梨を送って欲しいと頼んだのですがもうなかったそうです。ちょっと遅かったか。残念。彼のHPにある数学問題はけっこうハイレベルで面白いです。リュウヤ君の日記はほぼ毎日更新されるので欠かさず読んでいるのですが、正直で良いですね。わたしとは雲泥の差があります(笑)。すとり君は、この日記がわたしの正体だとおもっているそうですがとんでもないです。こんなに良い人じゃありません。文章は誤魔化すことができるので自分を出さなくてもそれなりに書けるのです。

●わたしの口癖として、「不安と焦燥」というものがあります。こうやって、何か書いたりしているときはいいのですが作業を中断すると感情が部屋に溜まります。なにかしなくてはいけない、こうしてちゃいけない、と思えてくるのです。そしてネットに繋ぎ、チャットルームに向かい、心の隙間を埋めています。わたしはそれがいけないことだなんて少しも思っていません。人とは、そうした生物なのですから。ただ、なかじ君ほどになるとどうかと思うのですが(笑)。ってごめんね、なかじ。悪気はないよ。ただ、どうしても君はネタにしやすいんだ(鬼)。また夜に更新します。夜に行進って言うと百鬼夜行みたいですが、、、、

●父上が、取引先の人と食事に行くと言うので無理矢理ついていきました(笑)。父上は長野の出で、訛りはないのですが方言が出ます。で、相手の方がどうも父上と同じ方言が混ざるのでお聞きしてみたところやはり長野の出だそうで父上が長野のどこか聞いたところそれが偶然にも父上とまったく同じ街。桜で有名な高遠です。年齢も同じだし、、、、ということで伺ってみると高校が同じ。ということは同級生なわけです。すごい偶然ですね。ところがそこから二人の会話がぱったりと途絶え、黙ってしまいました。あとは仕事の話ばかり。食事が終わって帰ってきたあとに父上になんで黙ったのか聞いてみたところ、二人は高校時代に2度と会わないという絶交をした間柄だそうです(爆笑)。いやぁ、やっぱりドラマのようにはいきませんね(笑)(こっちの方がドラマかもしれないけど)。しかし未だに引きずってるところがすごい。もう別れてから数十年でしょうに。まあ多分二人とも照れてるだけなんでしょう。天ぷらは美味しかったです^^