自分の人生とは実験であると思っているけど、qualiaは幻想であるという仮説はいつか検証されるだろうか。ボクにはもう何も残ってはいない。自分でいうのはおかしいけどボクの情報に関する考え方が標準的になるまでたぶん最低あと数十年はかかるだろう。だけどボクはボクの考え方が正しいと信じている。ここまでが、ボクの人生の到達点だと思う。本当はある程度先も見えているんだけど、ボクにはその実感がない。
例えばボクは情報の不完全さになれることができない。情報とはいつも不完全なもので、半分の処理能力で不完全な情報を大量に余剰性なく集め、残りの半分で不完全な情報を補完していくというのが未来の情報形態だろう。しかしボクは90%ほどの処理能力を補完に使ってしまっている。不完全であることに耐えられないのだ。でも部分的に情報の不完全さを介しない人間も出てきているようだ。もしかしたらボクはすでにオールドタイプになりつつあり、間もなくそういったニュータイプが現れるのかもしれない。
すべては実験なのです。あらゆる起こりえないことと起こりえることとの境界のない混合が世界を形成し、ボクと君とを存在たらしめるのです。だからボクが目を開けているか開けていないかはある意味では世界のすべてであり、ある意味では何の意味もないのです。
ボクにとってこの10年というのはあらゆるものを幻想と結論づける旅だった。
国家という幻想、
言語という幻想、
文化という幻想、
歴史という幻想、
国境という幻想、
大学という幻想、
科学という幻想、
宗教という幻想、
家族という幻想、
民族という幻想、
身体という幻想、
認識という幻想、
存在という幻想、
意味という幻想、
感情という幻想、
生死という幻想、
そして、現実という幻想。
あらゆるものは幻想であり、情報潮流の中で飛散する泡沫、世界というキャンバスに写るマーブル模様をボクたちは現実と呼んでいる。
現想的世界。
認識は情報と等価であり、幻想は認識というフィルタによって現実になる。ボクがボクと呼ぶ細胞群が比較的連続的持続的活動を緩慢にしたとしても世界はなにも変わらない。変わることのない永遠的発散の集合体。
脳の中の薄膜。混濁する世界。ボクは誰に会いたいのだろう。
痛みもがくが故認識する存在の意味を教えてくれとすがり叫ぶ鏡の中の己
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