Monday, January 19, 2009

幻惑の絵と意図

ボクは昔からけっこうなひねくれ者で、中学のときは美術の授業で風景画を描いてその上から白のポスターカラーで全部塗りつぶし、先生に何を描いたのかと聞かれて「意図です」と答えるような中学生だった。

その先生に習った最も大事なことは、「窓は青くない」ということだろう。校舎を描いていたとき窓ガラスを青く塗っているボクの絵を見て先生は、「今あそこの窓を見て青く見えるか? 見えないだろう。見えるものが真実とは限らないけれど、見えたものを見えたままに受け取ることも真実の一つだ」と言った。

多感なお年ごろであった中学生なボクはその言葉に感動してしまうんだけど、問題は今でもその影響が続いているところだろう。ただし白塗りの絵について言えば、そこで意図ですと言ってしまうのがボクの思想の限界で、何も描いてないと言えないところがボクが哲学者足りえない理由だと思う。だからボクは哲学philosophyではなく哲学的な思考philosophhical thinkingに留まる人間だ。

しかしよく天才的哲学者と称されるウィトゲンシュタインも、「哲学者philosopher」ではなく最も「哲学的な人間」だったのではないかと思う。だから本も日本では「哲学探究」という書名になってるけど、原題は"Investigation of Philosophy"ではなく"Philosophical Investigation"だ。彼は限界について語ってしまった。語らないことこそが彼の哲学の完成だったのにも関わらず。彼は哲学者であることをやめたのだ。

ボクはとっくに哲学者であることをやめたので限界について語れるだけ語ってしまうのだけれど、何も言わない意図は何もない状態とイコールであり、逆に言えば何も言わない状態はすべて哲学的限界の向こう側にあるものなのだ。それに意図の意図は誰にもわからないし、本人にもわからない。哲学探究で最も有名な言葉は「言葉の意味とはその用法である」というものだ。必ずしもそれに全面賛成はしないけど、意図も似たようなもので実際には存在しない幻想だ。ボクが彼女を好きであるとき、それが例えどれほど苦しいものであってもそこには嘘も真実もない。そもそも「好きである」ことなど存在しないのだ。

だからこそボクらはときに愛について沈黙し、それをわかっているにも関わらず愛について語らずにはいられない。君に百万回好きだと言おう。何も伝えることができなくても。君に百万回会いにいこう。何も言うことがなくなっても。